第24回('97/5/14)

チョット言いにくい話なんですが・・・・・・(第四話)

「アマチュア」の特権は何といっても、責任や自分の才能を突きつけられることのない「自由で気楽」な取り組み方ができることですね。
勿論、中には責任感の強い方、そして自分の才能を伸ばすものとして「アマチュア活動」に参加していらっしゃる方もおられるのですが、しかし、<生活>がかかっている<重さ>、はないですよね。
自分のやりたいことを自由に、そして自分のペースに合わせて活動すること、これを守っていれば「アマチュア」って最高!です。

私の「アマチュア」像は<自分の楽しみを十二分に満喫している人>なんです。
したがって<自分のことに感心がある>わけですから<人の批判>よりは<自分が楽しめることに感心がある>ということだと思うんですね。
人のことよりは自分が巧くなる、納得いくことに感心が向くと思うんです。

今回はこれを逸脱してしまっている人たちの話です。
例えばですね。
陶芸に趣味を持つ<アマチュア陶芸家>が自分の陶器制作そのものよりも、他人が作った陶器との優劣を競い合う。
絵画に趣味をもつ<アマチュア日曜画家>が自分が絵を描くよりも、他人が描いた絵と比べながら熾烈な優劣の競い合いをする、といったことは余り私には想像できないんです。
当然ながら、人が作った陶器や描いた絵の感想や批判といったことはするでしょうが、それに情熱を傾けるといったところまではしないと思うんですね。
それよりは自分が作ったり、描いたりすることに興味があるわけですから。
しかし、音楽における「アマチュア」、特に合唱人はそうではないんですね。
自分が<音楽する>ことより、他人の演奏に対しての批判に興味があるのではないかと思われるような言動をする人が結構いらっしゃるんです。
全て「評論家」のようです。
「評論家」についてはここでも書いていることですが、難しいですよ本当の「評論」とは。
どうしてでしょうか。たまたま私がそういった人々と出会っただけなのでしょうか? 器楽奏者のアマチュアには余りいませんね。やっぱり合唱だけの特異な現象でしょうか。

私にはこれって「共食い」「同士討ち」のように映るんです。
批判をして「切磋琢磨」しようということではないんです。
「我」が強いだけなんです。
これってどうしてなんでしょうね。歌や声が人格と直接繋がっていることや、レベルとしての技術的な有無が評価しにくい、という事情があるからかもしれません。
誤解を恐れず、しかし、少し慎重に言うんですけど・・・・・。
合唱界って「技術の錬磨」ということに関して一番甘いんじゃないでしょうか。
「技術の錬磨」は時間と労力が必要です。正直言って「技術の錬磨」に感心を持つと、人のことなんか批判する時間や気持ちのゆとりなんかないですよね。
どうしてこうも、合唱となると自分の<情緒><好み><思想>などが先走り、<技術>や<科学>としての話題とならないのでしょうか。

日本社会における「合唱」は今だ「大人になれてない」と思うんです。
合唱に携わっている私としては、早く「大人」として人々に認められるようにと願って活動していくことにしましょう。

これを読んで下さっている皆さんは合唱をなさっている方が多いと思います。
ここに取り上げた「アマチュア」も一部の人です。(その一部の人が幅をきかしているんですよね。ホントにモウ)
どうか他団の演奏に対して、攻撃的な批判を情熱を燃やしてなさらないでください。
(私などのように人の前に立つ人間は時折他の団や人のことを言うときがありますが、これなど責任をもってやっています)
「アマチュア」の喜びは、そして誇りは、自分の楽しみのために活動しているということですね。
音楽する喜びを追求しているんですよね。
「アマチュア音楽家」、それは音楽を純粋に、そして最高に楽しんでいる方々なんです。

第24回「チョット言いにくい話なんですが・・・・・・(第四話)」終わり。スミマセン、もうちょっと続きます。