第26回('97/6/6)

現代音楽

音楽は全て「現代音楽」だ、と思ってきました。
唐突な書き出しで申しわけありません。
今回はこの「現代音楽」についての私の見解です。

ジョスカン・デ・プレであれ、パレストリーナであれ、フレスコバルディやバッハであっても、演奏するときの私のアプローチは「現代音楽」でした。
演奏仲間や聴衆、そして評論家は常にそのことに対して「?」の反応でしたが。
仲間や聴いて下さっている方々にとっては本当のところ、このアプローチなどあまり<関心がなかった>と言ったほうがいいかもしれませんね。アプローチがどんなものであれ、<関心>は他のものに向いていることが多かったように思います。
私の演奏活動は、バロック音楽のオリジナル楽器による演奏に興味が集まり、演奏家がこぞって楽器を持ち変え始めようとした時期と重なっていたものですから、ルネッサンス、バロック音楽は「現代音楽」だ、と言っていた私はまわりからは浮いているように映ったかもしれないですね。
今はまわりも変化し、アプローチの仕方も「現代的」になった感がありますが、一般的にはまだまだこのことが理解されているとは言えない情況が続いているように思われます。

「現代音楽」とは読んで字のごとく、<現代の視点・情況で演奏される音楽>だと私は思っています。
混乱させて申し訳ないのですが、一般的には「現代音楽」とは<現代音楽語法や技法によって作曲された音楽>を指します。
いわゆる、電子音や特殊に加工された<ギーギー><ピュー><ゴワ〜ン><シュッシュ>といった断続的に連なった音、やたらと長い「間」、それにきしんだ連続の不協和音に代表されるあの音楽ですね。
無調性音楽、音の金属的な音色傾向、騒音と化するクラスター等の技法の様相は近年益々多様化し複雑化して極めて分類が難しい情況を生み出しています。
現在ではこの「現代音楽」の定義も人によって様々です

私がいうところの「現代音楽」はこれらのものも含めて、現代に演奏される全てのものを指して使っています。
。 バッハもヘンデルも、ベートーベンもモーツァルトも、私は「現代音楽」としてのアプローチなのです

ではその「現代」とは何か。
客観性、明晰が特徴の科学的指向の強いことです。
そしてそのアプローチは且つ「私自身のフィルター」を通したものでなければなりません。
ただの<受け売り>や<紹介>に留まらないアプローチの結果でなければならないと考えることです。
作品の演奏にあたっては、その内容に私自身が<共感>しなければなりません。そしてそれを公開する以上、その行為による内容は私自身に留まらなず、現代においての<共通性>を持っていなければなりません。
その開かれた演奏空間が「現代」という私の認識です。

よく聴かれ、受け入れられているポピュラー音楽(大衆歌)。その本領は<時代性>にあります。<今>を歌い、必要とされる<今>のサウンド(音響)を提供しているわけです。
クラシックを聴く人々も<今>を聴いているはず。
クラシックも現代音楽!
<今>のサウンドを求めているはず。
過去の<郷愁>や<哀愁>、未知なる興味や見栄だけで聴く筈もありません。

現代に生きる私たちが、当然のごとく現代の演奏をする。
これ、当たり前のことだと思うのですね。
しかし、異なることがあるとすれば、「クラシック」の本質はその<歴史性>にあると思うのですがどうでしょう。
<過去>を<現代>に蘇らせ、<現代>をうたい<未来>に託す。
<流行り><廃り(すたり)>に影響されない音楽、それが「クラシック」だと私は認識しています。
人間の本質に肉迫する<内容>と<サウンド>であること、それが音楽の本質であり全てなのです。
私の演奏は常に「現代音楽」でありたい、私はそう考えるのです。

第26回「現代音楽」この項終わり。