第27回('97/6/24)

Critique(5)

久しぶりの<批評文>の批評です。
このテーマを公正にするには、私たちの演奏に対する批評文は省く方針でした。
私たちの批評文での展開ではやはり手前勝手に見られる恐れがあるからです。
しかし、そのことにできる限り配慮しながら、今回は私たちのCD批評のことを考えてみました。

「レコード芸術」(7月号)に私たちの武満徹:混声合唱のための<うた>/風の馬の批評が掲載されました。
まず私が驚いたことには、このCDが<声楽曲>のジャンルで批評されていることです。
私は<現代曲>だと思っていたんです。
<うた>は微妙だとしても、<風の馬>は<現代曲>です!
レコード芸術にマネージャーが問い合わせました。不可解だったからですね
担当の方いわく、「正直言って区別の仕方は曖昧なんです。・・・・・(省略)・・・以前、晋友会のものなどが声楽部門で扱っていたことからそれに準じました」だそうです。
<うた>はそうだったかもしれないが、<風の馬>のことはコメントがありません。

音楽評論家のK氏(ドイツ文学)が担当されて批評を書かれています。
要約します。(全文は書店などでお読み下さい。ここに掲載することを出版社やご本人に承諾を得ていません。)
「武満徹には声楽曲が少ない。」と書き出し、そのあとに武満夫人の回想の中から徹氏の<人間の声は原点>だ思ったくだりや、「オペラに意欲を燃やしていた」と続きます。
その後どうしたわけか「声楽に関心がなかったわけではないのだろうが、どうしても器楽曲に方向に心が向いてしまう。」という文が挿ませて、何とベートーベンの話に展開するんです。ちょっと驚きました。
武満も晩年、ベートーヴェンと同じように<声の重要性>に気づいたというわけです。
そして「<明日ハ晴レカナ雲リカナ>や<小さな空>には、すでにオペラ的な夢見る様な空気(アリア)の広がりが感じとれる。」「そのひとつひとつは小オペラのふくらみを内包している」と書かれてしまうと私としてはとても戸惑ってしまいます
武満とベートーヴェンは私の中ではつながりません。

さて次なるフレーズが問題です。
「しかし、声というものにはどこか図々しい一面がある」
これってもう少し説明が欲しいですね。
実をいうと私はこのフレーズが分かるというか(奥深い部分では)理解しているのですが、唐突に出てくるこの場合では刺激的な印象の言葉として残ります。用いるにはもう少し配慮がいるかもしれません。
K氏は続けます。<図々しい一面がある>から武満氏は<ある潔癖感からそれを排除したかったのかもしれない>そして<てらいを感じ><器楽化してしまった>と綴るんです。
これって少し危険なような気がするのですが、どうでしょう。
想像をめぐらすのは自由ですが、これだと武満氏の「言葉」に対する感覚や、音楽観が一面的に陥る可能性があると思うのです。

そして、私たちの演奏評が(最後のたった)一行書かれます。
「このCDの演奏は作曲家のそんな複雑で微妙な心理をなぞり、こまやかに伝えてくる」と。

CD評は演奏に関して書いて欲しいと願うのは演奏者としての身勝手でしょうか。
演奏を通しての作曲家観や作品評となるのは解るのですが、この文では演奏に関する批評が伝わってこないんです。
そして大事なことですが、<風の馬>のことが一行も触れられていないんです!

いつも悲しく思うことがあります。
これに限らず、批評文全般に感じることなのですが、<作品が演奏されること>への関心や配慮を感じないのです。
演奏者や、演奏することへの関心が希薄です。

演奏の批評が欲しいのです。
作曲家の解説や評論家自身の音楽観、感想を読みたいとは思いません。
演奏評とは、演奏されていることへの批評です。演奏そのものの批評なのです。

声楽部門の準推薦ということです。
したがって残念ながらこの根拠も不透明です。
何かスッキリしない評ではありました。

第27回「Critique(5)」この項終わり。