第28回('97/7/12)

言葉を聴く

毎日<音楽>を頭の中でめぐらせていると、<ことば>というものにぶつかります。そして考えさせられます。
<音楽>と<ことば>、この二つは一般的には対立していると思われています。
日本では特に著しいのではないでしょうか。

今回はこの<音楽>と<言葉>を考えます。
先ずは音楽の大きな流れをここで想起しておきましょうか。

ルネッサンスは<声>の時代でした。
中世以来、合唱がもっとも盛んで、合唱作品の宝庫であり、また完成された時代でした。
この時代の関心は<声>の作り出す音響、そして音の構築です。
それが次の時代であるバロックへと移ると、<合唱>は<独唱>へと、そして<楽器>の著しい発達と相まって<声>と<楽器>の蜜月時代を迎えます。
歴史的にみても機械や道具といったものが著しく発達した時代でもありました。
<楽器>の発達はそれに呼応したものであり、人々の関心が<声>から<器楽>へと次第に向かっていったのです。
そしてその傾向は今日に至るまで続いています。

30年ほど前に日本でバロック・ブームが起こり、ヨーロッパに遅れて日本でもバロック音楽が見直され、研究されるようになりました。
私の音楽の出発点はそのバロック音楽でした。日本ではそれまで演奏や資料の伝統のなかった時代のことです。
全てゼロからの始まりでした。
日本におけるそれまでの演奏では(今でもそうかもしれませんが)<器楽>中心で、演奏テクニックや豊潤な響きが話題の中心でした。
オーケストラや室内楽の奏者たちの腕がいかに優れているか、また音色がいかに美しいかを競うような風潮でした。
日本でのその価値観の中に、ヨーロッパ中世来の<ことば>といった概念が入ってきたのですね。
その結果、浮かび上がってきたその音楽像は、現代に忘れられていた<言葉>を中心とする音響だったのです。
バロック音楽は言葉をどう音楽化するかということでした。
楽器の奏法も<言葉>を基本としていました。
楽器奏法でのアクセントやニュアンスは言葉と対応していたのです。
人間の言葉を楽器に応用したのです。
それほどに<言葉>と<音楽>は密接に関連していました。
決して対立するものではなかったということです。(オペラの発祥がこの時代であったということが象徴的です。)
中世来のヨーロッパ音楽は、言葉から音楽が生まれたと言っても過言ではありません。

さて話は変わるのですが。
日本では活字離れが起こって久しいと言われます。
私は活字だけではなく、言葉に対しても<言葉離れ>も起こっているような気がしているのですが。
最近、人の言葉に耳を傾けることを苦手とする人が増えてきていると思いますね。
自分の意見を述べたり書いたりすることに熱心な人は沢山いますが、他人が書いたものや話をじっくり読んだり、聞いたりする人は少なくなってきているように感じるのです。
日本語は<書き言葉>であって<喋り言葉>ではないという意見をどこかで読んだことがありますが、そのことと関係があるのでしょうか。
我が国では昨今それに拍車をかけるように<言葉>の重みがどんどん無くなっていっているように思います。
国会答弁を思い出せば<言葉>はいかに不信のもとになっているかが解ります。
これでは人の<言葉>に耳を傾けるということは無くなって当然ですね。
日本語は<書かれた文字>を重んじる。(日本の古代や中世ではそうでは無かったと思うのですが)
<喋る言葉>が無責任になるのが解るような気がします。
日本語はコミュニケーションには向いていなく、独白的なニュアンスの濃いものだと私は思っていましたから、このように考えてもまんざら間違いではないなという感じです。
それに対して英語やその他の言語は<しゃべり言葉>だと私は思うのですね。

欧米では日本ほど<音楽>と<言葉>の対立はないと書きました。
<言葉に抑揚をつければ音楽になる>というのもそう誇張されたものではないでしょう。
事実今日ですら欧米の音楽は<現代音楽>にあってもその音響は言葉と密接な関係があると私には思われます。
しかし日本では事情は異なるのです。

20年間月例演奏会を続けてきました。
この演奏会は演奏の合間に私が喋り、解説するというスタイルを取ってきています。
始めの頃は何人かの方から「喋りはじゃまでは?」という意見を頂きました。最近では無くなったのですが。
その意見を言われる方が「高学歴」「知識人」(こういう言葉を使うのは少し抵抗を覚えます)に多かったのが特徴かと思います。
とくに言葉や文章にたずさわっている方ほど強い口調で仰るようです。
喋っている内容ではなく、<喋り>そのものに抵抗をおぼえられるように私には感じられます。
まぁ、私の喋りが拙かったということもあるでしょうが、その方達の中ではやはり<言葉>は<音楽>にとって、とてもじゃまな存在として<対立>しているのだと思われます。
しかし、私がそのスタイルを今だに続けている理由は、それを「じゃま」だとは思わない方も沢山居られ、積極的に「喋り」と「音楽」をトータルなものとして楽しんで下さっているのだと20年間を通じて判断しているからです。
その方達は、若い人たちのライブ演奏などでよく見かける<トーク>と<音楽>、という風に捉えていらっしゃるのでしょうか?

皆さん言葉を聞くことに疲れているように見えます。
言葉を聞くことは多くのエネルギーを必要とします。
日本人は特に言葉を聞くことに疲れを感じるのではないでしょうか?
これからも日本では、特にクラシックの分野で、<言葉(喋り)>と<音楽>は対立するものとして平行線をたどることでしょう。
しかし、私はその<対立>を十分に認識しながらも<喋る演奏会>と<しゃべらない演奏会>を使い分けていきたいと考えます。
<音楽>も<言葉>もその訴えたいと思う気持ちはどちらも私にとって、重いものなのですから。

第28回「言葉を聴く」この項終わり。