第32回('98/3/17)

「<力>を抜く」

冬のオリンピックが終わって幾日経つのでしょうか。
沢山の<感動>、まだ脳裏に焼き付いていますね。
その後は引き続いてパラリンピックが始まり、そして、つい先日終わりました。
予想を上回る観客数、そして関心の持たれかただったそうです。

実を言うと、私はスポーツ観戦派ではありません。どちらかといえば実践派です。
スポーツは<するもの>なんだ。見るだけではつまらない。いや、見て喜ぶのは<勝敗>やそれに至る<プロセス>に関心があったり、賭事のような<興奮>に喜びを見いだしている人だけだ、なんて思ってたりしていたもんです。
スポーツの魅力は何たって自分の肉体を使う喜び。
もし、見ていて美しいもの、感動するものがあるならば、それは体の<動き>の美しさ、躍動美、機能美にあるのだと思っていたんです。
今もその思いは変わってはいないのですが、楽しみ方はいろいろあっていいじゃないか、人の楽しみ方にごちゃごちゃ言うべきではない、と昨今は<さとり>?を開きました。

と、いうことでおもにテレビでの観戦です。しかし、あまり見られませんでした。(生活の時間帯が違うものですから、見たくても見られないといった事情もありますが)
で、見るのは限られた時間の深夜の再放送か、ニュースに流れるシーンなんですね。
でも、それなのに<興奮の連続>でした。

後日、興味ある言葉を見つけました。それが今も強く印象に残っています。
今回はこの事を書きたかったんです。
その言葉とは、
金メダリスト(スピードスケート)清水宏保さんの次のような言葉だったんです。
「レースでは、とにかく筋肉をしなやかに使うことだけを考えました。<力を入れる>のではなく、<力を動かす>。レース中、手の指先がピンと伸びることはありません。指の力を抜くことが、八割の気持ちで十割以上の力を出すコツだと思っています」(朝日新聞2月23日朝刊)
う〜ん、と唸ってしまいました。

どの分野でも同じだと思うのですが、<力む>ことで巧く物事が運ぶ、といったことはありません。
音楽の分野でも、器楽演奏、歌うこと、それは言ってみればいかに<力を抜いて>演奏できるかということにかかっているんです。
清水さんがおっしゃることは真理を突いています。物事を極めた方の貴重な言葉として肝に銘じたいですね。

しかし、です。
これは<力がある>から言える言葉なんですね。<力む>ことの功罪を、体験を通して知るからこそなんですね。
力を生み出す努力(筋力をつけること)をしないで、あるいはさせないで<力を抜いて>と連呼する人を見かけることがあるのですが、これは注意しないと本質から相当かけ離れていってしまうと思います。
<力(パワー)>があってこそ<力>が抜けるんですから。

清水さんの言葉の中にある「筋肉をしなやかに」そして、「力を動かす」は良い言葉ですね。私大好きです。
すべては、<しなやか>でありたい、と思いました。

それにしても、物忘れが激しい我々日本人です。
あの感動を与えてくれた人々、その人たちがそれに見合った栄誉と尊敬、そして幾ばくかの富が与えられるよう、記憶して応援したいなと思うのですが、いかがでしょう。

第32回「<力>を抜く」この項終わり。