第33回('98/4/9)

「演出家 蜷川幸雄」

今週からNHKテレビ「人間大学」で演出家 蜷川幸雄氏の番組が始まりましたね。
以前から氏の演出する舞台に感心させられてきた私にとっては見たい番組の一つになりました。
しかし、残念なことに第一回目はビデオでの視聴です。
なかなか放映の時間には家にいないことが多いです。留守録という手を使えばいいのですがそれも忘れてしまいがちです。
今回の第一回は団員から借りて見ました。

見ての感想です。
始まったばかりでこれからが楽しみだということなのですが、やはり幾つか記憶にとどめられた言葉がありました。
私、氏の演出の中に音楽に通じる共通の問題があると思っています。
いや、私が演奏の場でしたいことと、氏が言う舞台づくりの要素とはいくつも重なる部分があるのを感じるんです。

演出をしだした当初、
●せりふを覚えてこない役者。
●立ち稽古にスリッパで来る
●サングラスをして稽古場にやって来る
●怠惰な風
●稽古場では本番と同じにはしない。(小さな声でセリフをいうんですね。本番に声がかすれないためだという理由で。蜷川が灰皿、靴を投げたという話は有名です)

これって、演奏のリハーサルと同じだと思ってしまいました。
最近はどこもこんな風ではないそうですが。

「舞台は異次元の世界、観客を始めの3分でその世界に引き込まなければならない」と氏は言うんです。
これ、好きですね。
演奏家は舞台芸術ということに関心を持っているでしょうか?
自分の芸術とは「音」なのだ!
と、私もかつては考えていました。しかし、最近はそれプラス「目を楽しませる要素」と「空間的要素」を加味したいと切に思うんです。

耳を楽しませる、音の裏側に潜む歴史性や人間性を楽しむ、それには視覚によるものも必要ではないかと思うようになったのです。
氏の舞台に接すると必ず「う〜ん」と唸ってしまうところがあります。それはただ「見事」というしかないぐらい感覚的です。
我々の眠っている感覚を揺すぶります。
異次元の世界でありながら感覚はリアルです。
氏の演出がイギリスやその他の国々で評判だとのことですが、これも納得いくことです。

また、氏はこの番組で語ります。
「私は正しく老いただろうか?」と。
1974年に演出した「ロメオとジュリエット」を再演するにあたって、自分はそれを超えられる演出ができるだろうか、これを自分自身のハードルとして捉えたいと。
これも演奏家にとって身につまされる言葉ですね。
私たちクラシックの音楽家は再演の連続です。
演奏の度に新しい発見をし、またその感動を聴衆に示せているだろうか。
指揮者として私は「正しく老いているだろうか?」

演出家や指揮者にとって、作品に対する解釈と演出(指揮)は自らの芸術性を示すための全てです。
気になる演出家 蜷川幸雄。
楽しみにこの後も視聴することにしましょう。

第33回「演出家 蜷川幸雄」この項終わり。