第37回('98/7/13)

選挙・少しは前進かな?

参院選が終わりました。
自民惨敗です。
投票率が上がり、若い人たちの投票が伸びたと報道されています。
無党派層の票が自民批判に流れたということらしいです。
また、都市部での投票率が上昇したそうです。
今まではどちらかというと都市部での無関心が目立っていました。
保守的傾向のある地方が強かったわけです。ここでも自民の苦戦が伝えられていました。

当然の結果でしょう。
昨今の経済政策、政治の腐敗等、どれをとっても国民の不信は口先だけの甘い言葉では拭えないほど深いものになっていました。
そのことに今の政府与党は気づかないほど鈍感になっていたということでしょう。

民主党、共産党が躍進です。
「解散・総選挙」の意見も出始めました。
私としては二大政党による政権交代が行われるような政治になればと思うようになっているのですが、まだまだ野党の勢力図はバラバラの状態です。
政党といわれるものには魅力がないですね。
政策を推し進めていくためには<政党>が必要なわけですが、個人の意見、魅力がないものですからそれぞれの姿、姿勢が見えてこない状況です。

良く言われていることですが、参議院はできれば政党化しないほうがいいですね。
良識の議会として機能を果たすために、参議院は<個人>の見識によって判断されるものであって欲しいと思うわけです。
この参議院という性格について、どのメディアでも論じられないのが不思議です。
自民が<勝った負けた>と報じ、各党の勢力がどうなったかという関心の持ち方です。
でも、それらの関心の持ち方は衆議院でのことですね。

選挙の結果を見れば、無党派層が動き、国民の意思が投票率でも解るように今までにも増して反映したことは間違いないことです。
そういう意味では「少し前進」です。
「少し」、これが私のこだわりです。
なぜならば、まだ先が見えない、期待が持てないのです。
政治の世界という枠での話ではなく、きっと日本の精神構造においての人間に問題を見いだしているからだと思います。
端折っていえば、首相が代わっても、また政権が交代しても、本質的な事態は<そう変わらないだろ>ということだと思っているのです。

「責任をとってお辞めになるのですか?」といった質問に、橋本首相は「明日の役員会で私の意見を伝える」というやり取り。
それがです、その後のテレビのニュース番組では一斉に「首相辞任を表明」と報道されたのです。
驚きです。
この理解のされ方が私には全く理解できません。
あのやり取りでどうして「辞任表明」になるか。
橋本首相は自らの責任において「辞任する」とは言わなかったのです。 報道も「辞任する」と言っていないのだから、「辞任表明」とは報道してはならないのです。
これがもっとも解りやすいことです。
「意を汲む」というか、「手順にこだわる」というか、言葉の重みなど吹っ飛んでいます。
言葉を重んじない政治家に対して我々は一体何を信じればいいのでしょう。
新聞報道などでも「言葉そのもの」に言及した記事でないものに対してどうして真実を見出せるのでしょう。(解釈や判断、論評といったものと、報道とは区別すべきです)
日本人同士だけが分かり合う世界、これが<全ての人に理解される>ものを覆い隠す結果になっています。

言葉に責任を持たせない構造、責任の所在を明確にしない構造、これらが改まらない限り根本的な変革はないのです。
「一歩前進」を共に喜びながら、「少し」のこだわりを追い払うことができない私ではあります。

第37回「選挙・少しは前進かな?」この項終わり。