第38回('98/8/3)

<論争下手>な私たち

真に「論争」することを学んでこなかったのは私たち日本人ではなかったか、と最近また思います。
「音楽」の分野ではあまり「論争」することがありませんね。
指揮者とオーケストラ間で「解釈」のことなどにおいて時には対立することはあるのですが、「論争」というところまではいきにくいですね。特に日本では。
「論争」という言葉が似合う場はやはり「政治」の世界でしょうか。

しかし、日常の私たちにとっても最近とみに「論争」が大切ではないかと思わせることが起こっているように思います。
もっと自分の考えを主張する。これが重要だと思うのです。
「察してもらう」ことを期待したり、「諦めたり」「避けない」で論じ合わなくてはなりません。そうでなければ「論争」とならないし、「論争」とならなければ「問題」は「解決」しないのです。
しかしその際の、「論争」するためのマナーといいますか、方法といいますか、実に我々は下手だなぁとは思いますね。

タイミングよく、ある一冊の本を手にしました。
(その本の紹介は「私の本棚」で掲載しています)
もともと街中に溢れる騒音に対する告発だったのですが、著者はその訴え、抗議する行動の中で、日本人の底に流れる「ある重大な問題性」にぶつかってしまいます。
それは「優しさ」という名の暴力であり、「語ることの虚しさを思い知らされる社会」であり、「語らせない社会」でした。それは「言葉の氾濫と空転」に満ちた日本社会という大問題だったのです。
著者はその「騒音撲滅の戦い」の中から以下のような結論を見いだします。
(日本人って)「みんななるべく管理されたく、なるべく甘えて生きたく、怠情でありつづけ、責任を引き受けたくないのです。いつもいつも放送で注意されたいが、個人的に注意したくなく、放送でアアセヨ・コウセヨと言われたいが、たがいに助けあいたくなく、なるべく他人とは言葉を交えたくなく、議論したくなく、考えたくないのです。」
「日本人が真の意味で<語らない>こと、<対話しない>ことが、現在の騒音地獄をかたちづくっている、と私は確信している。しかし、じつはこれは、日本文化の<根っこ>を掘り起こすほどの大改革なのだ。語らず察すること─この延長上に<思いやり><優しさ>が来る─、これこそ、われわれ日本人の美意識、行動規範の根幹をかたちづくるものだからである」
「この国では<語る内容>より<語り方>に細やかなルールがあり、それに厳密に従うことが要求されるのである。」

そこで著者は次のように提案するのです。

自分の個人的立場から<何事かを語ろう>
そして、まさに、「察する」美学から「語る」美学への転換が必要であり、日本古来の礼儀や美徳をかなぐり捨てよう。

との結論となります。最後はかなり<挑発的>で<乱暴>な言葉のように受け取れますが、この本を読み進んでいくと著者のこの言葉に至った思いがよく伝わってきます。
少し引用が長くなってしまいました。
私この著者の思いが<かなり解る>のです。
そして結論も<そうだ>と思うのですね。

我々は「言われる」ことに馴れていません。
「言われた内容」にではなく、「<言われた>というそのこと」に目を向けがちです。
そして「反論」することにも躊躇するんですね。
「聞くこと」と「聞き入れる」ことの違いも解りづらい日本人です。
「論争」することを学ばなかった<つけ>がここに立ちはだかっているわけです。
「意見をのべる」「語りあう」ことの重要性をひしひしと感じます。

第38回「<論争下手>な私たち」この項終わり。