第44回('98/12/3)

悩みは尽きません

いろいろ考えさせられることが多いです。
各問題で細かく悩むことはできるだけ避けようと努力しています。
しかし、それが基本的な問題であったり、避けようとしても避けられないような問題であった場合、これはちょっと深刻になってしまいますね。

最初のきっかけは「沖縄県知事の選挙」の結果です。
大田昌秀知事を熱烈に推していたわけでは無いのですが、沖縄問題を思うとき、沖縄人として象徴的な人だとの思いでしたから意外な選挙結果でした。
「推薦する本」でも紹介した「沖縄から始まる」では熱く語っていた大田さんです。
私も読んで、その思いは痛いほど判ったものですから県民の意志表示が気になっていました。
結局、県民は「経済」の好転を期待したわけです。
その意味で政府との関係が硬直化していた大田知事を見限ったということでしょうか。
新聞などは「理想」が「現実」に破れたと報じたものもありました。
その後、この結果は多くの人の「驚き」であったとも様々なメディアで報じられています。
<選挙戦>に破れた、つまり<選挙のやり方>にその勝敗が左右されたという記事も読みました。(相当、ゲリラ的な作戦、イメージ作戦、物量作戦、そしてお金が動いたとの報告がなされています)

そして、そういう要因が影響したのかしなかったのかは判りませんが、県民は今回の結果を出しました。
私は、この意志表示が県民にとって「後悔しない」選択であったことを願うしかありません。
私の悩み、それは計りがたい沖縄県民の意識(私は沖縄独自の文化、そして民主主義を守って欲しいと願っています)、そして、この重要な問題に本土での関心はそれほど高くない、ということにあります。
あまりにも「無関心」です。
そして、この「無関心」がどの分野にもまだまだ蔓延(はびこ)っていると私には感じられるのです。

「言葉の無力」を一層最近感じます。
たまたま乗ったタクシーの中、ラジオから聞こえてきた国会中継の演説、これひどかったですね。
歯の浮くような言葉がぞろぞろ並びます。これきっと原稿を読んでいるだけでしょう。そして読んでいる本人が本当にそのことを実行する意志があるのか?できると思っているのか?
聞く人もその内容を信じて聞いているわけでもない風です。
そんな「無意味な言葉」を意味づけて使わなければならない国民性とは不思議です。
「言葉」に信用性が無くなる。これって恐ろしいことです。
自分の考えや意志を言葉で語る。その語った言葉に責任を持つ、もしその言葉に誤りや約束を破ったり守れなかったりした場合は責任を取る、これって当たり前だと思うのですね。
でも、周りを見渡せば意見意志を<語れない><聞けない>という方向に進んでいっていると私には見えるのですが・・・・・・。

言葉の力が薄れていく中で、言葉や言葉以前の<心の衝動>を表そうとする「音楽」を生業(なりわい)とする私には、これは大きな悩みの種です。
<言葉の無力さ>を通じてコミュニケーションをとっている人々に対して<言葉> を語り、言葉以前の<衝動>を伝える。これは<語ることの虚しさ>です。

<言葉の復権>
つまるところ、<語る>ことに「責任」を持つということではないかと考えています。
言った言葉に責任をとる。聞いた言葉に責任を持つ、これではないでしょうか。

今、我々のメーリングリストで「言葉」についての意見が熱っぽく語られています。
日本語の性格がこれらによって浮上しています。今は「辞書」のことが話題になっているようです。
その文を読んでいると投稿者の言葉の対する誠実さ、センスの良さが感じられて楽しいです。
<言葉の復権>、これが私の悩みを解放するキーワードなのです。

第44回「悩みは尽きません」この項終わり。