第51回('99/9/18)

「学級崩壊」

想像以上だそうです。
授業が成り立たなくなっている「学級崩壊」。
新聞や雑誌などで見聞きしていましたが、私の想像を越えて現実はひどいらしいです。
子供たちが先生の言うことを聞かず、騒いだり、立って歩いたりするというのは私の頃にもあったと思うのですが、少数でしたし、他の者はそれを制止する雰囲気がありました。
小学校に「学級崩壊」。やはりこれは重大です。
この現象、これからも日本社会に大きな影響があるだろうと気が重くなります。

こうなっている原因は生徒のほうに問題があるのか。それとも、教師側に問題があるのか。
いろいろな立場で見解が異なるでしょうね。

しかし、音楽活動を通じて10年ほど前から私はこれらの兆候を感じ取っていたと思います。
その頃に出会った人たちとの付き合いの中にそれらを予期させるものを感じていたのですね。

一言で言えば、「対話」が成り立たないことです。
「対話」を<したい><しなければ>といった意志が感じられないんですね。
「人を理解したい」(相手の言っていることを理解したい)意欲が感じられないし、<相対的>な意味での「私を理解して欲しい」という努力が足りないのですね
自分をアピールするのに長けてはいるのです。その努力も惜しまないですね。しかしそれを表現し、説得する手段に馴れていないというか、まずいのですね(上手くないのです)。
そういう訓練を受けていないからです。
「対話」が下手な民族ではあります。

教師たちも生徒たちも一方通行です。
きっと両者間には「対話」が成り立っていないと想像します。
「対話」をさせない要因、それは「信頼関係」の欠如でしょう。
「対話」によって「信頼感」も生まれてくるとおもうのですが、これでは「信頼関係」が先か、「対話」が先か、「たまごが先か、ニワトリが先か」の論議です。
それぞれに<歩み寄りたい>と考えていると思うのですが、現実にはその糸口が見つからないほどに<混乱>しているのですね。
今や、学校現場では「対話」の接点が無い状態、「信頼感の欠如」がはびこってしまったのかもしれません。

「授業の楽しさ、面白さ」がこれらを解決する方法だと先生方の中にはそう考えている人も多いかと思います。が、そうでは無いと私は思うのですね。
「生徒たちへの指導」の改善ということもおかしな話です。
授業を面白く、楽しくする工夫によって少しはましになるかもしれませんが、「授業崩壊」の根はもっと深いところにあると思うのです。

個人としての「人生での価値観」「人生の目標」といったところに対する視野が与えられていない、またそれらに答えられない大人、そして社会に充満する「目先の幸福感(不安な幸福感)」よる焦燥感といったことが根底に潜んでいるような気がします。

突き詰めれば<信頼>の問題。
その<信頼>を強めるにはどうすればいいのか。
「対話」によって<信頼>が生まれる、と先に書きました。
その「対話」は<相手を理解したい><私を理解してもらいたい>という意志から生まれます。
しかし今や、<相手の立場に立ってみる>、<相手の心情を重んずる>というにはその基盤も情熱も無くなりつつあるのではないかとさえ思えてきます。自分自身に捕らわれ過ぎるという我が国の文化的特徴(これについては説明がいりますね)が根強く絡んでいると思いますね。

<相手を理解したい><私を理解してもらいたい>、その意志を表すのに、「話す」、「書く」という手段が用いられます。
「話す」ことを積極的にしたいですね。
「書く」ことも積極的にしたいです。
どちらも訓練がいることです。(どちらかといえば「書く」ことが苦手な人が多いです。「書くこと」は思考の論理性を高めることにつながりますから「対話」をするためにも必要ですね)

「学級崩壊」対策、いっそのこと、生徒たちに自由に「書かせ」、自由に「語らせ」、自由に「論議」させ、「対話」する訓練をさせてはどうでしょう。
授業の大半をこの時間に費やするのです。
きっと「学級崩壊」は無くなると思いますね。
しかし、問題があります。
それを指導できる(教える)大人(教師)がいないということなんです。

第51回「学級崩壊」この項終わり。