第60回('00/7/14)

感想か批評か?

OCMが提供するメーリングリストに、演奏会に関する感想を投稿していただくことが間々あります。
印象を書き綴ったもの、感想文、そして批評文に近いものと様々です。
いつも、心して読ませていただき、参考にし、次の演奏に反映させるべく練習に取り入れさせていただくことが多いです。

(「批評」については、この「マイヌング」の中で私の立場を明らかにしています。〔Critique(1〜5)再読いただけると幸いです〕)

最近、新聞などの批評文が少なくなってきているような気がするのですが、どうでしょう。
私の目に留まっていないだけなのか?
確かに私は、探してまでも読もうとすることは最近とみに無くなってきたように思います。
そして、またもや音楽雑誌離れが私の中で起こっています。
2〜3年まえから、ある音楽評論家の方や記者の方から「批評のコーナーが削られる傾向にある」と聴いたことがあります。
そういったこともあって、最近、音楽の「批評文」は読まれなくなっているのでは、と想像しているわけです。現に私も読まなくなっていました。(字数が少なすぎますね。あれではまともなことは書けないです)

しかし、これは良い傾向ではないかと実は思っています。
印象論や感想文のような「批評文」は読んでいて楽しくはありません。建設的ではないからです。
本当の意味での「批評文」を書くことは難しい。膨大な知識を背景に持ち、それに裏付けされた良識、信念、先見性を伴うものでなければならないと思うからです。
それに加えて、文章力も必要です。
そういった上質の「批評文」が少ないと私は思いますね。

私は書くとき、「批評文」として書いているのか、それとも「感想文・印象文」とするのかを明確に意識することを自分自身に強います。
ですから、人の文章にもそれらを読みとるところから始めます。これは「批評文」なのか、あるいは「感想・印象」としての文なのかを。
「批評文」に出会うと、真剣勝負を挑まれていると思いますから徹底的に論議する姿勢を取ってしまいます。(逆に、私が「批評文」を書いたときは相手がそのような姿勢を取っているのだろうと想像します)
ですから、当然ながら、内容については十分に深く考察します。

「誹謗・中傷」とまではいかないまでも、「批評文」の中には、人の行為の尊さを感じさせない文章に出会うこともしばしばです。
この時読み手は、虚しさだけが残り、内容によっては怒りすら感じる時があるのではないかと察します。事実そのような事件をこれまでに幾度となく見聞きしてきました。
(これはきっと、経験の有無の価値観とも関係しているのでしょう)
人の行為の善し悪しを判断するのは難しいです。
ですから、行為の否定的とも受け取れる内容となってしまう場合はそれだけ書き手の責任が重くのしかかってくるということです。



「感想文・印象文」はリラックスして読めますね。仮に否定的批判があったとしても読み手にとっては客観的に読めることが多いです。
それは書き手本人の「思い」としての範囲を感じるからです。
言い換えれば、書き手本人の「思い」の範囲では何を書いても自由というわけです。それが人に不快感を与えることが仮に起こったとしても、です。
膨大な量の裏付けもいらなく、その時の「感じたこと」を書けるという気楽さがあります。
自分自身の中で完結してしまう事柄ですから、無責任という風にも取られるかも知れないのですけれど、間違いなく<自分が感じた>ことなのですから、誰彼に遠慮することなく書けるわけですね。

「感想文」を沢山書くことを提唱したいです。
自分の思いを「書く」ことは、より自分自身に対して事柄の印象を深める役目を果たします。また「書く」ことは、思考をまとめるという訓練にもなるはずです。
それは<思索する>という予備段階です。

これらの訓練の末に「批評」が来るのではないか、そう私は思っています。
健康な「批評」が沢山交わされる社会は健全だと思うのですね。
沢山の「感想文」を書こうではありませんか。

第60回「感想か批評か?」この項終わり。