第61回('00/7/17)

アドバイスかサポートか

朝日新聞連載「折々のうた」(執筆者 大岡 信)を楽しみに読んでいる愛読者の一人です。
7月17日の「折々のうた」の解説の中で、<批評精神の涵養>という言葉が目に留まり、素敵な言葉だと心に残りました。
<涵養>とは「自然に水がしみこむように徐々に養い育てること」(広辞苑)という意味。前回に「批評」のことを書いたものですから、音(おん)としても響の良い<涵養>が特別に心に響いたかもしれません。

で、くどいようですが「批評」に関連して、以前から書きたいと思っていたことをここに付け加えて、「批評」に関連した項目を一応置くことにします。さて、その書きたいこととは。
<アドバイス>、<サポート>についてです。

私は「批評」を目にするとき、これは演奏者に対する、賛意、激励、時には叱咤の形を取りながらも全ては「より良き演奏」への提言だと思って読むことにしています。
<好しにつけ(肯定的な批評)><悪しきにつけ(否定的な批評)>、良きアドバイスです。
しかしながら、現実に多く感じるのは、アドバイスの形を取っているかのような書き方をしていながら、否定的な面をあげつらうことに終始してしまっている「評」です。
これはケチ付けられているのでは?
いまいましさの表れなんだろうか?と感じてしまうような心ない文も少なからず見てきました。(褒めちぎっている「評」は、これはこれで書き手の個人的な趣味、指向を吐露しているだけというものもあります)

<アドバイス>として「批評」を捉えたい、「批評」を<アドバイス>の一つの形態としたい、それが私の思いです。
そして、「批評」や<アドバイス>は、生かすも、殺すも、受手の取り方しだいです。
日々、私の仕事は、突き詰めれば<アドバイス>すること。
演奏をまとめるのも、練習をつけるのも、講演するのも、原稿を書くのも、<アドバイス>的要素の多い接し方だと思います。
そしてそれらを成功させるたのめ条件、それはただ一つ。
聞いてもらえること、読んでもらえることです。
内容を伝えるために、考えを聞いてもらうために、まず私の言葉に聞き耳を立ててもらわなくてはならないのです。
このような状況の中で培われた私の「批評論」です。

<サポート>を含む<アドバイス>。
<サポート>を感じさせる<アドバイス>でありたいと思います。

無責任に<アドバイス>は出来ます。
相手のことを深く考えずに<アドバイス>が出来ます。
しかし、<サポート>を感じない<アドバイス>が生きるか?
これは「否」、と私は思うのですね。

随分前のことになりますが、演奏活動をし始めた頃、「アドバイスお願いしますね」という私に対して、「任せなさいよ。どんどん直すべきところ、苦言をいってあげるから」と言われたことを思い出します。当時、これが結構ショックだったんですね。
言った人も悪気は無く、良くある「会話」だと思うのですが、悪いところばかり言われても・・・・・と思ってしまいました。
その言葉が今でも耳の奥で聞こえています。

人に意見を言う。この意見が「批評」「アドバイス」と言われるものであっても、全ては<誠意あるサポートの気持ち>なしでは相手には通じないだろう、そう思うのです。
<支えたい>、<支持したい>、<支援したい>、<助けたい>、この気持ちを持って、真摯に、時には辛辣に、意見を述べたいと思っています。
そして、人の意見もそうあって欲しいと願っているのですね。
そういう意見に私は出会いたいと思っているのです。

<批評精神の涵養>、この言葉、私の心に刻まれました。

第61回「アドバイスかサポートか」この項終わり。