第64回('00/8/28)

25年を振り返ります(3)「合唱団の誕生」

フルーティストとともにはじめた演奏会。
「パイプオルガンを囲んで」と題したこの演奏会には歌や歌のアンサンブルも参加していました。
その声楽曲を担当したのは教会の百周年記念のために集まった合唱のメンバーでした。
アマチュアからなるそのメンバーは熱心でした。技術的にはまだまだでしたが、新しい音楽に対する姿勢は真摯なものだったと思います。
そのメンバーの中心的存在の方から、「せっかくこうして集まって練習し始めたのですから今後も続けられたらいいですね」という意見もあり、定期的な練習を組んだ合唱団が発足したのでした。
それが「大阪コレギウム・ムジクム合唱団」の創立(1977年)でした。

各パートが2〜3名。はっきりと私の頭の中に描かれていたイメージは室内合唱団の響きでした。
現在でもよく言われることなのですが、「どうして音楽大学の声楽科出身者たちを選ばなかったのですか?」という質問があります。
当時、大学ではバロック音楽は教えられてはいませんでした。声楽科の人たちもオペラ志向で、発声もグランドオペラ用の強く、大きな声を目指したもので、勢い、それらはビブラートの多い、歌詞の聞き取れにくい、作られた声となっていました。
そして大事なことなのですが、ソロの勉強はしても声を合わせるといったアンサンブル意識が当時の声楽界には薄かったように思います。
合唱の授業はあっても、それを専門とする「科」はなかったのです。
「発声」と「アンサンブル」、この二つが私には大きな障碍でした。

私の演奏会での当初の合唱は私の「試行錯誤」「あがき」だったと思います。
歌い方、様式、指向する声のイメージはあるものの、系統的で理論的な発声法をまだ見い出せず、私の身振り手振りでの音楽づくりでした。
当時の私を知る人の話によると、私は寡黙な人と映っていたようです。
練習開始と共に現れて、楽譜を配り(初見の練習のようでした)、曲の説明もないまま黙々と振り続け、時間になれば解散。
それでも人が集まってきていたわけですから、熱心で合唱好きな方々にめぐり会えたと、ただただ今となっては感謝するばかりです。
合唱団作りに二の足を踏んでいたもう一つの問題がありました。
それは声楽科出身の人たちとの活動では無いとすれば、それはアマチュア合唱団ということになってしまいます。
いわゆるサークル的な、人の出入りの多い、積み重ねの困難な団ということになりかねないということでした。
それでは私の目指す合唱団とは成り得ません。
当時の何処にもない響き、音楽作りを目指している私にとってはこれは大いに意を削がれる大問題でした。

何もかも初め尽くしという状況から合唱団活動が始まったのでした。
とにかく目標とする前例がないわけです。
私のイメージでしかないものを形として立ち表すしかない。しかし、その手法とする理論がまだない。寡黙となったのは当然だったでしょう。
合唱団は作った。しかし、前途は霧の中だったのです。

No.64「25年を振り返ります(3)「合唱団の誕生」」('00/8/28)終わり