第73回('01/9/25)

内輪話でなく、細微でなく

時折、「日記」やこの「マイヌング」を書いていて」<ゴミ文>ではないかと思うことがあります。
私の周りや、私自身のことをいろいろ書いているのですが、このような雑文を公にしていることによって、読んでいただいている方々の貴重な時間が無駄になっているのではないか?
そんな懐疑心、不安感が過ぎります。

ホームページを作った頃、シュッツに関する資料や、団や合唱づくりに関する情報を流すことを目的としていました。
それが現在でも未発表となっている「シュッツに関する資料」をはじめ、当初の計画が進行していないものもあり、それらは毎日の「出来事報告」や「考え」などが先行してどんどん送れてしまっているのが現状です。(普遍的な情報量はまだまだ少ないと思います)
唯一、私のホームページでの「合唱講座」は多くの方々の関心を引いているようなのですが、これとて頻繁に更新できる内容では無いために遅々としています。

では何故、「日記」や「マイヌング」を書くか。

直接的には「現団員」に向かってのメッセージという役を担っています。
私自身の日々の行動を通じて、「練習場」では伝えられない事柄を知っていただくためのものです。
「表現しようとしている根拠は何か?」「どういった思想背景によるのか?」
活動を共にする人たちに対して私という人間をより知っていただく、これが大きな目的です。

ただ、書いている私には、「現状報告」「現私的生活の報告」という範囲では収まらない<ある意識>があります。
「公」にするという意味にも通じる大事なこととしての意識です。
その意識とは?
団体を取り纏める主宰者として、そして音楽を先導する指揮者として、<責任の所在を明らかにしておかなければ>という強い思いです。
歩んできた足跡、考えの軌跡、これらを記録しいつでも確認できるようにしておく、これは<責任者>として必要なことだと思うのです。

私が書く雑文は「今」を書き綴っているのではないような気がします。
自分をさらけ出すことによる、未来から省みることの出来る「個人史」としての「過去」を書いているのだと思うのです。
その「個人史」が如何に活動とする「演奏」と関わったか。
その視点にたっての執筆です。

内容が「内輪的」でなく、「細微」なものでなければいいのですが、文章の拙さもあってなかなか思うようには書けていないのが現実です。
しかし、これも隠しようのない「私自身」、少しでも進歩があるように一つ一つ書き続ける。
私流の「歩み方」です。

第73回('01/9/25)「内輪話でなく、細微でなく」この項終わり。