第78回('02/9/18)

人との付き合い

「人との付き合い」に神経を使います。それは私の場合、<頑張っている>と言ったほうがいいかもしれません。
どう<頑張っている>か?
あまり<親しくなりすぎないように>、いわゆる<ベタベタ関係>にならないように頑張っているわけです。

私の性来の欠点(と思っています)、「筆無精」は致命的だと思って落ち込むことが多いです。
ここに書いているように昔に比べれば自分でも驚くほどにキーを叩いて拙文を綴ることができていますが、大事にしたい人、かけがえのない人、お世話になった人には近況など記した文一つ書けないでいます。
いつも気になりながら、でも書くのを怠ってしまいます。

「親しくなる」故の<甘え>、や「客観的な思考」ができなくなるのではという<恐れ>、がその根底にあります。
親しくなった人には<甘く>なるのではないか?
大事にしたい人対して、<甘く>なったり、<甘え>てしまったりするのではないか。
いつも「一定の距離を保っていたい」、「保たなければいけない」と思ってしまいます。

どんどん深く関わって(深くなくてもいいですが)、影響を受けることもなく「我を貫く」という接し方もあるかもしれないのですが、どうも私にはそれが重くのしかかり過ぎます。
私が「大事にしたい人」を変わりなく<思い続けて>いる、<見続けている>ことが重要なんだ、と一人よがりに思ってしまうのです。

「変化」に敏感です。
良い方向に変わることも、私から見て良くない方向に変わっていっているのではないかと思われる変化にも、敏感に感じる自分が居ます。
「良い方向」だと勿論いいのですが、「良くない方向」だと心がずたずたに引き裂かれる思いの痛みで辛いです。

「突き放す」ように見えることがあるらしいです。
あるいは「無関心」を装うことがあるらしいです。
しかし、突き放したりするほど気丈になれず、無関心を装うほど寂しさに強くはありません。
「人」を信頼し、尊敬し続けたい。私も信頼していただき、できれば大事にしていただけるような人間でありたい、その思いが「一定の距離を保つ」付き合い方にさせています。

いつも「私を発信し続ける」、それが重要なことだと思っています。
私信に対する「筆無精」は直らないかもしれないのですが、音楽活動を通じて「私を発信し続ける」ことができます。
「音楽の中に私自身が生きる」こと、それは私を飾らない生きざま、「私をさらけ出した」姿です。
「音楽」を介しての「言葉に寄らない」人の心との交流、それが堅固で安らかな、人との結びつき方の一つだと信じている私です。

第78回('02/9/18)「人との付き合い」この項終わり。


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