第82回('03/1/30)

中途半端?(私の音楽歴を加えて)

日常的なこととかなりの隔たりがある音楽作りはしたくないと思って活動してきました。
例えば、「発声」がそうです。
ヨーロッパを発祥の地として発展してきたクラシックの「発声」は長く西洋音楽の活動に携わってきた私にとってもいまだ違和感を拭いさることができません。

しかし、その「クラシカルな発声」にも歴史があって、1700年代までの発声は高度に発展したプロフェッショナルなものだったとはいえ、まだ「通常」の枠の中に入るものだったと想像でき、そこには我が日本人との共通性も見出される要素もあると私には思われます。
私の言う「通常」ではない違和感のある「発声」とは、オペラとともに力強く巨大化した「発声」です。
その「発声」で日本語を歌った時には、もう私には「異常」としか映らないのですね。
ヨーロッパ語の響きによって発展してきた「発声」を、日本語の響きに応用する、その違和感はずっと私の悩みの種でした。
日本語の自然な響きにも対応できる「発声」を見出さなくてはならない、という思いが強くあったのですね。
で、試行錯誤の末やっとその「発声」」の方向性を掴んだと思うのですが、そのできあがったものを聴けば今までにない明るく、明澄に日本語も響かせられるという成果があるものの、伝統的なクラシックの「発声」を学んだり、聴いてきた人たちからはアマチュア的と疑問視され、一方のポピュラー畑の人たちからは「クラシカル」と思われてしまうという中途半端なイメージに映っているかもしれません。

幼い頃、無口で人一倍人見知りの強い私にとって「歌をうたう」ことは私自身の唯一の表現でした。そして人から認められた私自身への確認でもありました。
私の音楽歴の始まりは「歌う」ことだったと言えます。
その、「歌」は<生活する、生きる>ということと同次元でした。安らぎ、慰め、喜び、哀しみ、慰め、そして勇気を与えてくれるカンフル剤としての働きでもありました。
「歌」はいつの時も<借り物>ではない「想い」であり、私の悲哀の傍らにいつも寄り添い、私の核としての存在で有り続けてきたと思います。
その核である「歌」の延長が私の音楽歴でした。
打楽器(小太鼓、ティンパニー)から始まる音楽歴は後の吹奏楽(ユーフォニューム、オーボエ)、ピアノ、そして一番演奏歴の長いパイプオルガンでの演奏となるのですが、常にその底には(私の)「歌」が流れていたように思います。
どの楽器も、いわゆる演奏家としては「もの」にはなりませんでしたが、「歌」をうたう心と、全身全霊「歌の流れ」に添う感覚は確かです。
器楽による機械的な動きとしての喜びはずっと後のこと、私の音楽の底に流れるのは自分の心模様、心象としての「歌」でした。
自分自身を表現するための道具、それは(器楽演奏をしていても)常に「歌」だったように思います。

<リアリティー>と言う言葉が私にとって重要です。
<リアリティー>のない音楽は辛いと思ってしまいます。
「リアリティー」、それは<現実性>という意味もありますが、私にとっての「リアリティー」は<真実性>という意味に取ります。
ドイツ語やラテン語で歌う場合も、私の心に歌詞や内容に対してリアリティーがなければなりません。
日本語を歌っても借り物の「発声」で歌うのでは私にはリアリティーが生まれません。

「歌」は、私の心の発露であったということで<リアリティー>そのものでした。
他の演奏を聴いて、真実味がないと思ってしまう「歌」では楽しめない理由です。
何を持って「真実性」とするか、難しいかもしれませんが、しかし私にはハッキリしています。
<神><祈り><賛美><哀しみ><喜び><愛><憎しみ>といったありとあらゆる想い、感情が心身と一致したものでなければなりません。
パフォーマンスに偏った表現、頭で処理されただけの表現、表現としてだけの感情、それらは空しいと思ってしまいます。
様式感に縛られ、伝統に縛られ、人脈に縛られ、現実に縛られているような表現ではまだまだ「本物」には成り得ないのではないか、そう思っています。
さまざまな制約から解き放たれた「自己の解放」による表現が望みです。そのとき、「本物」に一歩近づけるような気がしています。

指揮をして私が表現するものが「激しい」とか「強い」とか評されることが多いようです。
私の歌はやはり「激しく」「強い」のでしょう。演奏する作品の中に同じものを見出すからだと思います。
たとえ、叙情性に富み、静かで優しさに溢れた作品であっても、その中に作者が込めた熱い「想い」を感じ取ろうとします。
作曲家やその作品がもつ「真実」に迫りたいと強く思うわけです。

この強い表現指向も最近では中途半端になっているのでは、と思うことがあります。
ヨーロッパでの演奏では気にすることなく強く表現した演奏も、我が国の演奏では「慎重」になっている自分を発見します。
何かに押さえられているように振っている自分を見るわけです。
これは「衰え」なのか、「妥協」というものか、それとも「成熟」へと向かうものなのか?
自分の中では中途半端に映っています。

原点に戻りたいと思うのです。
いつも傍らにあった「歌」の想いを演奏に反映したいと思うのですね。
私が目指す音楽、それは自然倍音に基づいた新しい「発声法」による新しい「響き」、そして明澄な発音による的確なスコア・リーディングでした。
これは合唱団だけではなく、「SCO」に対してもそう望みました。

<リアリティー>のある音楽。
私のこれからの演奏は、その<リアリティー>への邁進です。

第82回('03/1/30)「「中途半端?(私の音楽歴を加えて)」この項終わり。


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