第85回('03/7/29)

音楽家になった理由(わけ)、クラシックを演奏する理由(わけ)

何故、音楽家になったか?
それは私の想いを音楽によって表現できたからです。
何故、クラシック音楽だったのか?
それは、人間の知性に憧れたからです。
何故、演奏会を開くのか?
コミュニケーションしたかったからです。
自分の考えていることを表現する、己自身を表現する、これは「人」として大事なこ とです。
それは、身振り手振り、言葉、書、絵画、音楽、踊りなどを用いて表現しますが、
私は「音楽」によって私自身になれ、私自身を表現することができました。
言葉によって説明できないもの、伝えられないもの、その苛立ちのなかで見つけた「音楽」。
私にとっては言葉による呪縛からの解放、それが「音楽」でした。

「知る」ことによって自分を成長させたい、と思うことも人として大事なことです。
幼い頃から未知に対する好奇心が人一倍強かった私。
私が「クラシック音楽」にのめり込んだのもこの好奇心によるところが大でした。
「クラシック音楽」は 人間の知性による創造という意味合いが強い分野です。
「知」への憧れ、これが持続の理由です。
感覚的、フィーリング重視は「クラシック」以外での音楽分野の特徴です。
誰よりも情緒派だった私。
その私が、感覚的、フィーリング重視にならなかったのは、その情緒に溺れることの危険性をいくらかは知っていたからだと思います。
「知性」への探求、これが「クラシック音楽」をし続けている一番大きな理由です。

メカニック的なことに対する興味も人より強かった私です。
そのことが、「クラシック音楽」での「テクニック」の取得という困難な作業に良く働くことになりました。 演奏上に立ちはだかるテクニックを解き明かすこと、それを身につけ積み重ねること、そのことは「未知なるものへの探求」「メカニックへの興味」の延長線上にあって、私にはとても楽しく思えたのでした。
テクニックを磨くこと、それは「謎解きの扉」を一つ一つ開けていく、自身を成長させる喜びです。

アート(芸術)はコミュニケーション・ツールの一つであると私は信じます。
メッセージとしての役割です。

音楽はメッセージを伝えるコミュニケーション・ツール。

しかし、伝えられるものがなければメッセージには成り得ません。

コミュニケーションを取りたいと思わなければ「音楽」もまた成り立ちません。

伝えたいものがなければ「持続性」もまたあり得ません。

閉鎖性の強い「自己満足」「自己陶酔」のアートに陥らないように、と思って活動してきました。

コンサートはコミュニケーションを通しての「生きる場」であり「創造の場」であると私は思っています。
人間にとって創造することを怠れば人間としての大きな喜びを得ることなく一生を終えることになります。
人は「創造」するために生きているのではないか、私はそう思っています。
「創造」するのは芸術だけではありません。日常の生活の場でも、教育の場でも「創造」する喜びがなければ空しい営みになってしまうといわなければなりません。
今を生きる喜び、それは創造することに関与しているという充実感です。
モノをつくり、心をつくり、人を育て、社会を形成し、多くの人と交わる、これが人間としての営み、そして大きな喜びだと私は考えます。

第85回('03/7/29)「音楽家になった理由(わけ)、クラシックを演奏する理由(わけ)」この項終わり。


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