第86回('03/8/22)

教育

養老孟司さんの著書を最近よく読みます。
書店で目に付くところに置いてあるものですからつい手にとって見たその結果です。
それにしても、よく次から次へと出版されますね。
実際の間隔は詳しく調べたわけではないのですが、そんな印象です。

養老さんの著書は以前からお気に入り。
その内容に目から鱗が何枚も落ちた経験があります。
解剖学という分野からの氏の<物の見方>には教えられることが多く、その中の幾つかは私を大きく変化させたのではないでしょうか。
最近出版の本は<喋り言葉>のような文体なので読みやすいとはいえ、私には少しまとまりが悪いように思いながらも以前と同じくその内容には引き込まれます。

「養老孟司の<逆さメガネ>」という新書版を読みました。
これは「教育論」の本ですね。

日本ばかりでなく世界的にも社会は大きく歪んでいる。
都市化社会と村社会という問題。
身体感覚を忘れた日本人。
親に問題がある教育。
個性は心にあるのではなく、身体そのものの中にある。
激変過ぎた日本社会。
共同体と機能体について。
科学ですべてが予測できるわけではない。
多様性の高い社会を作る必要性。
脳化社会の歯止め。

所々、ここまで書いていいの?と思うところもありますが、ざっと各章ごと、順番にそって幾つか取り出しても興味ある事柄ばかりです。

実は、私が係わっている「音楽」の分野でもここに書かれている意見と共通する思いがたくさんあります。
日頃の私を悩ます問題と全て重なります。
特に私は音楽家として、奥深く潜んでしまっている伝統・文化といった人の心の部分に思いを馳せることになりますから、日本人としての<生き方>にどうしても目を向けてしまいます。
もし、この日本での大きな流れにそって私が生きていたならば、きっと今のようには悩まなかったでしょう。
「在野に居る」(私は意志を持ってそのことを望んだのですが)、そのことによって、結果的に<事の本質>をづっと見続けられてきたのではないかと思っています。
そして「その本質」と現実との差違に大きく悩みます。
「この世の中、歪んで進んでいる」・・・・・・その思いは今、もっとはっきりとしたものになっているのですが、だからといって決してそれが私の内に<絶望感に満たされた状態>だというわけではありません。

人が互いに認めあえる
人が個々生かされる
人が互いに信頼しあえる

そのような環境を作ればいいのです。

確かにその道のりは簡単なことではありません。
結局、現在正しいと信じられている価値観の転換が必要ということなのですが、この難しい問題も<人間ならばその素晴らしい能力によって可能>だと私は思っています。
それは<教育>の問題です。
教育の在り方なのです。それは学校教育ばかりではありません。あらゆる場、あらゆる関係の中で教育ということについて再考されなければならないと思うのです。
教育の中に、上に書いた<認めあう><生かす><信頼する>を構築することです。

人って教えていかなくてはなりません。 人って教えられなくてはなりません。
そのことによって人の知恵が受け継がれ、人としての生命を生かされ、模索し、進歩し、そして保たれるのです。
人としての基本的な営みです。
しかしながら、現在では教えることも、教えられることも、良い関係になっているとは思えません。
教えるという行為が利害関係の内にあり、儲け主義の影響を受けているように思えます。
教えることが切り売りとなり、教え手の個人的な欲を満たす一手段となっているわけです。
教えられる側も身体で受け止められないといった歪みを感じます。
真の意味での<理解し、実行できる>という域には達していないというわけです。

教育の基本は見返りを期待しない無償行為にある、と養老氏は上の著書で書きます。
私もその通りだと思います。
しかしです。氏も言うように教える側にとっては無償では生きていけません、教えることができなくなります。
その兼ね合いをどうするか?
人生の価値観、優先順序がそれを結論づけることになるのですが、現代こそその価値改革、転換が必要な時に来ているのではないか、そう思います。
<無償>という思い、その思いをどう教育の中に生かすか、これがキーワードなのかもしれません。
教える喜びを持ちたいと思うのです。
教えられることの喜びを身体で感じたいと思うのです。
人を生かすことの喜びを持ち、人が生かされることを身体で喜びたいと思うのです。

我が欲によらず、人を生かし、生かされる<場>。
音楽を通して、その表現を通して<場>を作る。

私が主宰する「大阪コレギウム・ムジクム」はそれを目指しての<場>だったと思います。

第86回('03/8/22)「教育」この項終わり。


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