千原英喜『どちりなきりしたん』


■概要
■『妙貞問答』について
■『サカラメンタ提要』について
■「どちりなきりしたん」2曲目について
■『どちりな・きりしたん』について
■『こんてむつすむん地』について
■おまけ

「どちりなきりしたん」では1曲目は『妙貞問答』と『サカラメンタ提要』、2曲目は「南蛮小唄」などから南蛮文化に思いを馳せる民謡・俗謡などと『サカラメンタ提要』、3曲目は『どちりな・きりしたん』とミサ通常文、4曲目が『こんてむつすむん地』と『サカラメンタ提要』、そして5曲目は「Ave verum corpus」からテキストが用いられている。
このうち『妙貞問答』『サカラメンタ提要』「南蛮小唄」『どちりな・きりしたん』『こんてむつすむん地』について書いていきたい。

「どちりなきりしたん」のテキスト『妙貞問答』『どちりな・きりしたん』『こんてむつすむん地』『サカラメンタ提要』の4つは、おおよそ1590〜1610年の間に印刷・発行された。
この時期は秀吉の禁教令は出ていたものの、日本に印刷機が持ち込まれ、布教の拡大にも再び乗り出した時期。特に秀吉の死(1598年)後約十年ほどは、日本キリシタン教界の第2期栄光期と言っても良く、信徒も最も増えた時期であったであろう。

『妙貞問答』は日本人による最初のキリシタン教理書。『どちりな・きりしたん』『こんてむつすむん地』はローマ字本・国字本が両方出た、日本人に最も親しまれたキリシタン書。「南蛮小唄」などの民謡・俗謡は日本人による南蛮に思いを馳せた謡、とキリシタン関係の中でも、日本人に馴染み深かったものをテキストとしているように思う。
また『サカラメンタ提要』から取られた「Veni creator Spiritus」と「Tantum ergo」も比較的ポピュラーなタイプの賛歌で、当時の日本人信徒もよく耳にしたり、歌ったりしたのではないかと推測される。

★『妙貞問答』について
1曲目のテキストの元になるキリシタン書。1605年(慶長十年)に刊行された。日本人イルマン(修道士)、不干斎ハビアンによって書かれた物。日本人の手による初めてのキリシタン書。
南蛮寺等に出入り出来ない身分ある女性知識人のために書かれたとされ、妙秀と幽貞と2人の尼の対話形式で書かれている。
仏教・神道・儒教を批判しキリスト教の教理を述べている。三巻に分かれており、上巻で仏教、中巻で儒教、神道を批判し、下巻でキリスト教の教理を述べている。
中巻下巻は神宮文庫に現存するが、上巻は現存しない。ただし長崎県庁に保管されていた『仏法之次第略抜書』がこの上巻とほぼ同じ内容だったのではないかと考えられている。
従来、ハビアンの独創的な書物とされてきたが、その後の研究により、キリシタン時代のしっかりとした教理解説等の順序を踏まえていることが分かっている。

※不干斎ハビアンについて・・・生没年不詳。元は加賀の禅僧であったとされるが、1583年頃キリシタンとなり、のちイルマン(修道士)となる。1605年『妙貞問答』を著した後、1607〜8年頃に自らの意志でキリスト教を棄教した。棄教した理由は定かではないが、修道女との恋愛関係が元にあったとも言われている。1620年頃に『破提宇子』(はだいうす)を著す。これはキリスト教を排撃するいわゆる排耶書であり、最初にキリスト教の教義を述べ、その後仏教、神道、儒教を用いてキリスト教を批判するという『妙貞問答』とは反対の形を取っている。この最初のキリスト教の教義の記述がかなり正確であったことから、ハビアンのキリスト教理解度はかなり高かったとされている。

1曲目のテキストに使われている部分は、『妙貞問答』下巻の「現世安穏、後生善所ノ真ノ主一体在マス事」と、一番最後の後書きの様なところから部分的に抜粋している。
「ありとせ〜叶わず」までが一塊り、「見給え〜示され候」までが一塊り、ほんの少し空けて「下に〜為なり」までが一塊り、それぞれ「現世安穏、後生善所ノ真ノ主一体在マス事」からの抜粋。そして「真の御主〜仰ぎ奉る」までが後書きの一番最後の部分から抜粋されている。

この時代のキリシタンへの教えは、まず世の中の自然科学の法則などを説明し、そこから‘でうす’の存在を説明していくという方法がよくとられていた。
1曲目で抜き出してある部分も、正にそういうところが使われているのではないだろうか。

「真の御主〜仰ぎ奉る」はハビアンによる後書きのような所からの抜粋で、この後書きでは『妙貞問答』がどのような書物であったかを書いている。そして何故このような書物を書いたかというと理由で締めくくられている。それは「真の主であるでうすが世にあがめられる事を希い、来世に天に生まれ変わる事を願うため」である。すなわちテキストの最後の部分である。

★『サカラメンタ提要』について
1,2,4曲目に使われているグレゴリオ聖歌が載っている書物。
『サカラメンタ提要』(1605年刊)は、日本文化・習俗を考慮した上で編纂された司祭のためのキリスト教の儀式書である。五つの秘跡に関する説明と教会法による規定、信者への訓辞などが示され、他にも各種の祝別や行列、埋葬式などへの指針が書かれている。
原題は『教会の秘蹟執行のための提要。日本司教イエズス会ルイス・セルケイラ、その配下の聖職者のために作成。出版承認、管理。日本イエズス会コレジョ、1605年』

この中には19曲のグレゴリオ聖歌の楽譜が含まれている。現存する日本最初の活版活字印刷楽譜であり、二色刷活字印刷書でもある。現在、日本には上智大学と東洋文庫に1冊ずつ、世界では10冊ほどが現存している。

聖歌は五線のネウマ譜によって書かれており、五線が赤、音符が黒であった。日本人が葬儀を重要視することから、19曲中、13曲が葬儀用のものである。また他の6曲も司教訪問などの時に歌う曲であり、一般信徒が普段歌うようなものではなかったという。
葬儀用の曲が多いのは、日本人が葬儀を重んじるところからきているとされる。

この頃の日本への教化は、できるだけ日本の実情に合わせたような方策が取られていた。儀式を重要視し、グレゴリオ聖歌などで荘厳におこなうことで信徒獲得を目指すこともその一つであった。この『サカラメンタ提要』にもそのような儀式の強化が見てとれる。

「どちりなきりしたん」で使われているのは、この中から‘Tantum ergo’と‘Veni creator Spiritus’。『サカラメンタ提要』所収のグレゴリオ聖歌の中では、比較的当時の日本の信徒の間でも歌われていたのではないか、と言われている2曲。
‘Tantum ergo’は聖体賛歌で、元々は‘Pange Lingua’と言う聖歌の第5節。様々な旋律で作曲されている聖歌だが、『サカラメンタ提要』ではスペイン・ポルトガル地方のローカルな旋律で載っている(T.L.de.ビクトリアもこの旋律を用いて作曲している(名古屋ビクトリアで演奏していましたね(^^)))。千原さんの「どちりなきりしたん」でも、この旋律が採用されている。『サカラメンタ提要』には、この聖歌の第1節しか載っていないが、「どちりなきりしたん」では第2節まで歌われる。
‘Veni creator Spiritus’は聖霊賛歌。こちらも『サカラメンタ提要』には第1節しか載っていない。「どちりなきりしたん」でも第1節のみが使われている。

★「どちりなきりしたん」2曲目について
2曲目は南蛮文化を思わせる歌謡・俗謡を集めてテキストとしている。それぞれの謡の出典と思われるものをあげていく。

・出船の酒を〜惜しむ歌もあり
延宝四年(1676年)に出た、花楽軒蝶々子の『俳諧当世男』の中にある連句が元と思われる。
ラベイカは13〜16世紀にイベリア半島で愛好された楽器。ヴァイオリンの前身レベックのポルトガル語。ヨーロッパに行った天正少年遣欧使節達が帰国し、豊臣秀吉の前で演奏したとされる楽器の一つ。胡弓の事をこう呼んでいた、と言う説もある。

・通い来る来る〜さんたまりや
元禄十六年(1703年)刊行の『松の葉』所収の長崎節が元と思われる。『松の葉』とは当時流行の三味線歌を集めた5巻による歌謡集。ここでは「通い来る来る黒船」では無く「昔より今に渡り来る黒船」となっている。

・ベレンの国の〜お讃め尊ばれ給え
長崎港外の離島(どこの島かは不明)にて伝えられていた俗謡。ナタル(クリスマス)の晩に歌われたとされる。
長崎県高島地方に伝わる「ベレンのオラショ」と称される謡。キリシタン時代に上演されたキリスト教の劇(ミステリヨ劇という)の歌詞が元ではないかとされる。
長崎県外海地方では潜伏キリシタンが、ナタレ(ご誕生)の夜に唱えたオラショ。ここでも「ベレンのオラショ」と呼ばれる。180ぺん唱えたらしい。

・沖に見えるは〜丸に矢の字が書いてある
長崎県浦上地方で密かに伝えられてきた俗謡。パーパは元々はローマ教皇と言う意味。
浦上地方と言えば、村全体が潜伏キリシタンであった所。禁教の中、パアドレを待ち望む心情がうかがえる。「マリア」を「丸に矢」とひねったのも、奉行所の監視をごまかすためだったかも知れない。

「出船の〜」以外は長崎関連。出島もあり、キリシタンが多く居たこの地では、キリスト教が禁じられても、異国情緒や南蛮の雰囲気が残った歌が多くあったと思われる。

★『どちりな・きりしたん』について
3曲目の元となるキリシタン書。
日本でのキリシタン教育のため最も数多く印刷されたと思われるキリシタン教理書。1591年に加津佐で日本国字版、92年に加津佐または天草でローマ字版、1600年には長崎で国字版、ローマ字版が出版されている。1591年版は『どちりいな・きりしたん』と言う表記であった。1592年版は現存していない。
元は1570年頃、ポルトガルで編纂されたジョルジェ(Marcos Jorge)による教理書であると言われている。これは、主に子供へのキリスト教教育を目的とした教理書で、師が問い、弟子が答える問答形式で書かれている。これはかなりポルトガルでも使用されていたようだ。
『どちりな・きりしたん』は、このジョルジェの教理書を元に作られたようだ。問答形式は採用されたが、ジョルジェの物とは逆に、主に弟子が問い、師が答える形を取っている(そうでない場合もあるが)。日本で使用するにあたり、子供用の物を成人用に、また向こうでは当たり前のキリスト教教育を一からしなければいけないので、より詳しくしたり、削除したりする部分が多々あったようである。
また1591年版(天正版)から1600年版(慶長版) の間にも日本の状況に合わせ、多くの加筆・修正・削除が行われている。
かくれキリシタンの唱える‘おらしょ’の元になる部分もたくさん含まれている。数多くのキリシタン書のなかでも最も代表的な書物。

■歌詞で『どちりな・きりしたん』のどの部分が使われているかについて。

「どちりなきりしたん」のテキストは1600年版の『どちりな・きりしたん』より取られている。

・ひとつには、天地萬像〜きりしたんの教えに極まるなり
第一章(『どちりな・きりしたん』は全十一章からなっている)「キリシタンといふは何事ぞといふ事」より抜粋。師が弟子のキリスト教の理解度をはかるために「第一肝要な題目を申せ」と問う。それに対する弟子の答えの部分。
本当はもっと細かいのだが、千原先生は肝の部分だけ抜粋している。

・どちりなきりしたん、これ、きりしたんの教え、心なり
『どちりな・きりしたん』序文より抜粋。序文は『どちりな・きりしたん』がどのよ
うな本であるか説明した文。

・これ一切の智恵まなこ〜まことの道にもとづくべし
同じく『どちりな・きりしたん』序文より抜粋。序文の一番最後の部分。大事。

・天にまします〜地においてもあらせたまえ
『どちりな・きりしたん』第三章「パアテル ノステルの事」より抜粋(もちろん『どちりな・きりしたん』には全文が書いてあります)。ご存じ「主の祈り」です。

・さて、きりしたんとは何事ぞや〜キリシトと唱え奉るなり
『どちりな・きりしたん』第一章「キリシタンといふは何事ぞといふ事」より抜粋。第一章の後半部分をほぼ全部抜粋してある。
ただ、「きりしたんのしるしとは何事ぞや。−尊きクルスなり」この部分だけは第二章「キリシタンのしるしとなる貴きクルスの事」から取っている。

最も問答体らしいところなので、どこからどこまでが師で、どこからどこまで弟子なのかを記しておきます。

(弟子)さて、きりしたんとは何事ぞや。
(師)御主ゼズキリシトの教え、言葉と身もちをもて表わす人なり。
(弟子)何ゆえか、あるじゼスキリシトの教えをヒイデスに受け、言葉、身もちをもて表わす人とは言うべきぞや。
(師)心よりヒイデス受けずして、叶わぬのみならず、言葉にも身もちにも表わすべきの覚悟あること、もっぱらなり。
(弟子)きりしたんとは何をかたどりたる名ぞや。
(師)キリシトをかたどりたる名なり。

(弟子)きりしたんのしるしとは何事ぞや。(※1)
(師)尊きクルスなり。(※1)

(弟子)キリシトとは如何なる御主にて。
(師)まことのデウス、まことの人にてましますなり。
(弟子)まことのデウス、まことの人にてましますとは何事ぞや。(※2)
(師)万事に叶いたもうデウスのまことのおひとり子。尊きビルゼンマリヤの御一人子にてましますなり。(※2)

(師)キリシトとは尊き油を塗られたもうというこころなり。その神、帝王、サセルダウテ、ポロヘイタ、これ三様の人、尊き油を塗られたまいしなり。御主ゼズキリシト人にてまします御ところ、帝王の上の帝王にてましますによて、くだんの尊き油のかわりに、スピリツサントのガラサを充ち満ちて持ちたもうがゆえに、キリシトと唱え奉るなり。(※3)

※1 この2行のみ第二章から抜粋
※2 この2行は2つの問いを一つの問いに、2つの答えを一つの答えにまとめたもの
※3 これは弟子による「何によってかキリシトとは唱え奉るぞ」という問いに、師が答えたもの。第一章の最後をなす部分である。

元々『どちりな・きりしたん』は日本の信徒のためにキリスト教の教理をわかりやすく噛み砕いたモノだが、この3曲目のテキストでは、さらにそこから大事かつわかりやすい部分を抜き出している。まさに「キリシタンとは何事ぞや」と言うところか。

最初に重要な部分(肝要なるところ)から歌い始り、「どちりな・きりしたん」とは何であるかを簡潔にかつ印象的に述べ、ミサ通常文とパアテル・ノステルを挟み、「どちりな・きりしたん」の特徴、問答体に突入していく・・・。改めてすごい構成の曲ですね・・・。

★『こんてむつすむん地』について
4曲目のテキストの元となるキリシタン書。『イミタティオ・クリスティ』(キリストの模倣)という書物の和訳本。1580年頃和訳が開始され、1596年ローマ字本が天草で印刷された。1603年には国字本が印刷され(現存せず)、1610年には京都で原田アントニオにより国字本が上梓された。ローマ字本と国字本、両方、印刷されたのは『どちりな・きりしたん』とこの『こんてむつすむん地』だけであり、版数も多く重ねていることから(1613年には1300部印刷されたとの記録がある)、信徒達に広く読まれていたのではないか、と言われている。

内容はイエス・キリストの生き方に学び倣い生きること、世俗的虚栄を蔑視することを論じた本である。殉教の精神にも多く触れていることから、禁教が迫る中、信徒達への殉教教育に使われたのではないか、とも言われている。『こんてむつすむん地』が版を重ねる頃は、徐々にキリシタンへの弾圧も厳しくなり始めた時代。近づく弾圧に備え、信徒達に「キリストに倣い殉教せよ」との意味でこの書が多く使われたことも考えられる。

『こんてむつすむん地』の原書『イミタティオ・クリスティ』は、イエズス会の創立者イグナティウス・ロヨラにも大きな影響を与えた。従ってそのイエズス会によって布教された日本でも、この書の翻訳は心待ちにされ、また翻訳後は多くの人によって読まれた。
ちなみに『イミタティオ・クリスティ』は現在も多く出版されており、日本語版も多くでている。

『こんてむつすむん地』は日本で翻訳されたキリシタン書の中でも白眉の出来と言われる名著。日本文と欧文の混ざり方、文章の美しさはキリシタン文学の極致とも言われている。
全4巻に分かれ、各々数十章からなる。

曲に使われている主なテキストは第一巻第1章「世界のみもなきことをいとひぜずきりしとをまなひ奉る事」から抜粋されている。
ただ「Regnu Dei〜はかなき世界を厭うべし」の部分だけは第二巻第1章「心中にでうすとむつましくさんくはいし奉る事」より抜粋している。

曲の冒頭Qui sequitur me…と始まり、そのラテン語の訳文から本文が始まる。ラテン語で記され、その後に日本語訳文が続いている。『こんてむつすむん地』にはそういった箇所が多く見られる。聖書からの抜粋などの重要な部分でこの手法がよく使われている。なんとも美しい。

★おまけ「Ave verum corpus」妄想
5曲目。元々はアンコールとして作曲され、シュッツ合唱団では単独で演奏される事も多いこの曲。しかし私にとってこの曲は「どちりなきりしたん」の終曲、との思いが強い。
この組曲を4曲歌ってきて、Ave verumを歌いはじめると、色々なイメージが湧いてしょうがない。そのイメージを書けるままに書き記しておく。あくまで私の勝手なイメージです。

キリシタン時代。日本人信徒がひとり静かに祈っている。場所はどこか日本の教会。木で造られている。中央にあるイエスの磔刑像に向かっての、深く静かな祈り。映像は徐々に磔刑像のイエスの顔に寄っていく。

そのイエスの顔に日本人信徒の顔がダブる。苦しそうな顔。映像が引くと、イエスと同じように磔にされている。そこからキリシタンが迫害される様が次々浮かんでは消えていく。磔、穴吊り、踏み絵、斬首…。焼かれるキリシタン書。壊される木の教会…。キリシタン達の叫びの声。

静けさが戻る。海辺。かつてそこにあった教会は跡形もなく、そこで祈っていたキリシタン達の姿もない。向こうに島が見える。生月島。何か聞こえた?いや、何も聞こえない。聞こえるのは波の音だけである…。

以上です。