旅のお話番外編〜浦上四番崩れ〜


旅のお話その18に出てくる「浦上四番崩れ」に関する解説です。
この解説は、OCMメーリングリストに掲載した際、「浦上四番崩れって何?」と言う質問が出たので、それに対する解答という形を取っています。

崩れっちゅうのは、キリシタンである事が発覚、もしくは発覚しそうになる事件があったということで、他に尾張崩れ、美濃崩れなんかもあります。
四番って言うのは、浦上村では4回、崩れがあったっちゅうことです。

浦上一番崩れは1791年。庄屋が寺に石仏を寄進することを決め、村人に喜捨することを要求したところ、多くの村人が拒否。拒否した者のうち19人がキリシタンであるということで捕らえられるが、証拠不十分で1795年に釈放される。
浦上二番崩れは1842年。転びキリシタンの密告により村の中心的人物等が捕らわれるも、知らぬ、存ぜぬ、で通し釈放される。
浦上三番崩れは1856年。密告により多くの指導者等が捕らえられる。転んで仏教徒となる者、殉教する者も出る。この事件により、浦上村の帳方は廃止、水方は3人殉教、ドミンゴ又市のみ生き残る。(帳方は太陰暦でキリシタンの暦をつくる役。長崎系のキリシタンでは組織の最高責任者。水方は洗礼を授ける役)

んで肝心の浦上四番崩れですが、背景から説明しますと、1865年大浦天主堂が建ち、パーデレがやって来たことで潜伏キリシタン達の信仰熱は急速に燃え上がり、また外国人神父達も信徒発見に喜び、密かに教えを広めていきます。
で1867年(大政奉還の年だ!)、事件は起こります。

浦上本原郷でキリシタンの死者が出た時、檀那寺にも庄屋にも届けず自葬する、といったことが相次ぎます。今までは仏式の葬式を受け入れざるを得ず、後に経消しのオラショを唱えるなどしていたのですが、パーデレに会い、その行為が魂の救いに障りがあることを知り行動に出たのでしょう。そして檀那寺との関係絶縁を希望する者の名簿が庄屋に提出されたのです。その数は村の大半を占めていました。浦上キリシタンは250年ぶりにお上に逆らい、信仰を告白したのです。
ここから江戸幕府、明治政府の迫害が始まります。

指導者的な人物が捕らえられると、諸外国の反発に会う幕府、しかし幕府も家康の祖法を曲げるわけにはいかず、一進一退。そのまま大政奉還がおこなわれ、浦上キリシタン問題は明治政府に受け継がれます。
明治政府は、この浦上キリシタン問題を神道国教化政策を推進する事に利用します。明治政府の大迫害が開始されました。浦上村のキリシタン拠点の根絶を目指した迫害。
それは‘一村総流罪’でした。その数、なんと3394人!
全国各地に流されて行き、過酷な生活を強いられ、‘転ぶ’事を要求されました。
(この過酷な流罪のことを浦上キリシタン達は「旅」と呼び、この話を「旅の話」として語り継いでいます。これが私の「旅のお話」というタイトルの元ネタだったりします)

1868年から配流は始まりました。国際世論の高まりと共に、1873年流罪は解かれます。この間に出た殉教者の数、拷問による改心者(転んだ者)も多く出ました。

以上が簡単な浦上四番崩れのあらましです。
この過酷な迫害を生き延びた人達は、拠り所を求め浦上天主堂を建立します。

その辺のお話は「旅のお話その?〜浦上天主堂〜」にて‥‥。

99.12.3

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