翼が鳥をつくったのではない


1999年7月25日、私は京都C・モンテヴェルディ合唱団で荻京子作曲、寺山修司作詞の五つの混声合唱曲「飛行機よ」を歌う。

この曲が歌いたいと、この合唱団で主張したのは、他でもない私である。
なぜ歌いたかったのか?
当たり前の様だがこの曲が大好きなのだ。とりわけ終曲で表題にもなっている「飛行機よ」。こんなに好きな曲は邦人曲の中では珍しい。
なぜそんなに好きなのか?それを今から語ろう。

「翼が鳥をつくったのではない 鳥が翼をつくったのである」

この歌詞でこの歌は始まる。この部分を歌うたびに私は「その通り!」と思って目が潤む。この詩に込められたメッセージは色々考えられるだろう。それを考える時、私はどうしても鳥の進化の過程に思いを馳せてしまう。

鳥が空を飛ぶ。このために何が起こったのか。
身体を軽くする、そのために骨の組織を変える。
羽ばたく翼をつくる、そのため前足を捨て、その組織を変える。
羽ばたく筋肉をつくる。

こう書いてしまうと簡単だが、並大抵ではない。(ちなみに人間が鳥のように飛ぶには、体重を七分の一に、筋肉を二十倍にしなければならない。(筋肉はあってるけど体重の方は自信ない。五分の一やったような気も・・・))

なぜそうまでして翼が必要だったのか?

空を飛ぶためなのだ!

鳥は空を飛ぶため、自らの意志で翼をつくったのである。

そんな鳥の空を飛ぶ姿を見て、

「少年は考える」のだ。

「少年は考える」こう言われただけで、私はもう駄目だ。「そうか、考えるんだ」と思って泣いてしまう。

少年は考える、自分の翼をつくろうと考え、あがく。

そんな少年の姿が、単純で爽やかで切ない音楽で彩られていく。
「飛行機よ」とはそんな曲だと私は考える。

途中から何を書いてるか自分でもわかんなくなってきたが、そんな言葉になりきらない思いが、この曲に対してあるのである。

是非聞いて下さい。

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