No.10('92)

「公・私」について


今回は私がよく言う言葉の一つで、これまたよく誤解されているのではないかと気に掛かっている「個人的な関係だけで事を運んではいけない」ということについて補足説明をすることにします。またそれに関連することも書いてみようと思います。

今回は、
「公・私」についてです。

ホット安心できる場所、束縛されず、思いのままに自由に振る舞える場所、人はそれらを求めます。これらは決して非難されるべきものではありません。「逃げ」というものでもないでしょう。
人間として当然の事と考えます。
そのような場所が必要なのは一人の人間の中に、「自己」と「他」とが生じ、生きていく上のその間に「葛藤」というものが必然的に起こり得るからです。これは自分のしたいことが何でも実現されていくとは限らないから起こります。皆さんの仕事のことを考えてみても、必ずしも自分のやりたいことが仕事として成り立っていないことを考えてみると、このことも判ってもらえるかも知れません。
ですから、自衛本能としてそのような場所を求めるのは当然ではないかと考えています。

しかし、このことを「公私」の問題として捉え、「私」は我に返るところ。「公」は闘いの場所。そんなふうな図式に置き換えて考える人います。
そこでは、「公」では自分を抑えて我慢し、「私」ではそれを補うという風になります。
ですから、「公」ではどんどん自分から離れた人格が形成され、「私」ではどんどんわがままに成っていく。
「公」では<緊張>。「私」は<弛緩>となるわけです。
ですから、各人がそれぞれ工夫して「私」での過ごし方を持つことになるのです。

しかし、この「公」と「私」を「建前」と「本音」として捉えてしまうと少し問題が出て来ます。
「公」と「私」は人間全般に当てはめることは出来ても、「建前」と「本音」を全ての人が持つべきもの、持っているものとして、混同したり、同じ扱いにすることは出来ないのです。

さて、ここからが本題です。
何故、私は「建前」と「本音」を警戒するのか?
それは、「建前」で人と付き合うとどうしても自分に対しても人に対しても無責任になってしまうことに私は気づいたからです。
「本音」が別に在ると、真剣に人に接することをしなくなり、人とのやり取りはあくまで体裁上の事、あるいは商売のような社会的な便利さといったものとなり、真の付き合いでは無くなってしまうからです。
私事ですが、私の母は医者の誤診でなくなったと聞いています。父は後に自分の「建前」を守って自ら命を絶ちました。医者は後に自分の非を家族に告白されたそうです。家族はそれを聞き、その医者の良心を感じたそうです。父は結局「本音」を家族に言うことなく死にました。人間としての本当の父の姿を隠したままでした。
過ちや後悔の繰り返しが人間かもしれません。
しかし、自分の気持ちを偽り無く、言いにくいことも勇気を出し、それらを繰り返さないために語れるのもまた人間だと信じます。

「本音」を言い合う。これが真の理解に繋がる方法です。
他人からとやかく言われるのを極端に嫌がる人、プライベートな事を出来るだけ隠そうとする人います。
自分を出すのは少数の気の合う仲間の付き合いだけ。
しかし、結局はこの関係も表面上の付き合いなのですね。
「本音を言い合わない」という了解のことで繋がっているだけだと思うのですが。
人によっては本音を言わないのが「大人」だと思っていたりもします。
実は喋る方も聴く方も「どちらにしても結局は他人のことだ」という暗黙の了解があって、双方真剣ではなかったりすることが多いのではないでしょうか。
このような人たちは、結局「本音」を喋り合うことで、自分が非となることが判ったり、認めたりするのが怖い人々なのです。自分を守ることが第一なのでしょう。あるいは、自分を守ることだけで精一杯なのでしょう。
人のこと、あるいは後の人の影響とかを考える余裕などない人たちなのです。

「公私」や、「建前、本音」を区別して、使い分けなどする必要がないようにそれぞれのバランスが保たれるのが理想だと思います。
人間、裏表を持つと、結局相手にも裏表があると思わざるを得なくなります。腹のさぐり合いが始まったり、不信感に陥ったりします。前号で書いた「自分たちを超えるものに価値の基準を置き」ながら、互いに真理を求めることを理想とし歩みを進めたいと思います。





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