「教育」の歴史は、長いようで、実はものすごく短いと思う。

もちろん、広義の意味での教育 --- 人が、他の人に何かを教え、それを通じ人間性をも育てる --- は人類の歴史の始まりからある。

ただ、ここでいう「教育」とは、義務教育を持ちシステム化された教育のことだ。「近代学校教育」とでも呼べるかもしれない。

義務教育を伴う学校「教育」が、近代以降の人間社会において、素晴らしい役割を果たしたことは、言うまでも無い。現在社会に存在する優れた価値あるものの多くは、この「教育」体制なくして、生まれえなかった。~
また、お金の有無に関わらず、全ての人間が、優れた教育を得る可能性を獲得した。(あくまで「可能性」、当然、当事者やその親族による努力は不可欠。)

今ここで述べておきたいことは、2点ある。
-近代以降の形の「教育」は、まだ歴史が浅く、いくらでも改良の余地が、いや、そのシステム・方法論などについて、根本的な革命が起こりうる余地を含んでいること。

少人数に何かを教える、ということは有史の長さと同じだけ人類は経験している。しかし、大勢多数に何かを教える、ということは、本当に、驚くほど歴史が浅い。はっきりいって、今の世の中にあるすべての集団教育法は、まだまだ改良の予知があると考えた方がいいように思う。それは教育する側の問題ではなく、歴史の長さの問題だと思う。~


-近代以降の形の「教育」が整備される前に存在していた優れた教育の形にも、目を向ける必要性があること。例えば、特に20世紀初頭までのヨーロッパ社会に見られた、裕福なパトロン(貴族、王族などによる)による優れた教育。日本でいえば、江戸時代の寺子屋。~

8年も前に買った「カザルスとの対話(白水社)」を大変楽しく読んでいて、カザルスが、モルフィ伯というパトロンに優れた教育を授かっていたことを思い出した。他にも、いろんな国の王族、貴族たちが、たくさんのことをカザルスに与え、成長させている。彼ら、権威も財もある人々は、自分が価値あると感じた人間に、本当に惜しみなく援助をしたのだろう。

今、ヨーロッパでそれが続いてるか、僕には分からないが、少なくとも、世界中のどこでも皆無だろう。才能ある若者が、見る目を持った裕福な者に見いだされ、素晴らしい経験を惜しみなく与えられる。若者は、それに応えるべく惜しみなく成長する。地位や人種などは関係ない、素晴らしい「人」と「人」の関係の一つだと思うし、そして、理想的な教育の一つの形だと思う。

この教育の形が持っている良い部分を、現在のシステム化された「教育」に組み込むことはできないのだろうか?~

日本の寺子屋の教育について言えば、それは「塾」という形で実現していることも多いと思う。もっとも、資本主義に乗っかって本分を忘れ、自己主張に走る醜い塾も多数存在しているが・・・~

これからも、自分が平和に生きるために、教育について深く考えていきたいと、強く思う。

...2006-07-21 (金) 02:31:50


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