デジタル教科書についての私見(その0〜試作品)

デジタル教科書について

どんなデジタル教科書であるべきか

「どんなデジタル教科書であるべきか?」それは

間違っても、作る側のもうけなどは気にしてはいけない、
どうすれば、子供の学習にとって良い方向へ進むか、それを考えないといけない、
そして、それに真摯になって出てきたモノを作った人を、周りの大人が支援する

という形であるべきと考えています。

これは、ある意味では、悪いモノを淘汰していく仕組みを持っていますが、
現在の社会の多くを回している、経済の仕組みとはずいぶん違います。

私は、教育は資本主義に組み込んではいけないと考えています。
これについては、いつか詳しく述べたいと考えていますが

充実している、とは?たとえば、数学の教科書でいえば

何があっても、以下の事柄は些末なことにすぎない。

当然のことながら、これら「些末」なことも充実するべきである。教科書をすべて無料で配布していたら、配布する人は生活できなくなり、結果的に、よい教科書は作れなくなる。

しかし、これらは全て「些末」であり、上記のようなことが付加価値として他を圧倒する要因になるならば、それらは自分さえ良ければ良い人間教育なんて未来なんてどうでもよい意図から生まれるものだ。

アメリカのとある州では、州の赤字をなくすために、コストの低いデジタル教科書を導入していると聞くが、言語道断である。それに賛同する大人たちは、自分たち大人の尻ぬぐいを子供にさせるほど、大人としてのプライドはないのか。

『教科書のビジネスモデル』について

『教科書のビジネスモデル』などというものは、そうやすやすと語るべきでない。
もし語るならば

という高い視点から議論されるべきである。

ただし、一つ注意をしたい。
教育学には、投資に対するリターンがこれだけあった、といったことについて、客観的な理論どころか、生のデータさえ、一切存在しない。
たしかに、「○○メソッドを使って、△△の成果が出た」というデータはたくさんある。しかし、そこに因果関係があることを証明することは困難である。そういった証明を徹底して行うならば、結局のところ、人体実験になってしまうことが多い。私の考えでは、ここを科学的に行えるようになるのは、脳科学がもっと発展してからになるのではないかと考えている。

少し脱線します

本当に、よいデジタル教科書を作りたいと思うならば、既に現場で授業の経験をある程度積んだ人たちが半数くらいは集まり、これまで自分が教室で教えてきて積み上げてきた教育論というプライドを、いろんな人に切り刻まれいいところ取りをされ、自分の欠点もたくさんさらけ出される、そういう覚悟のある人たちが、真剣に議論し、物を作っていかない限りは、無理ではないかと思う。

正直なところ、私が以前本に寄稿したとおり、教員というのは「授業をするためのまともな研修」というものを普通は受けていない。むしろ最近では、研修の場がないことを恐れ、教員になろうという人がわざわざ塾(教師になるための)に自腹で通うくらいである。


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