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デジタル教科書についての私見(その0〜試作品)
デジタル教科書について†
どんなデジタル教科書であるべきか†
「どんなデジタル教科書であるべきか?」それは
間違っても、作る側のもうけなどは気にしてはいけない、
どうすれば、子供の学習にとって良い方向へ進むか、それを考えないといけない、
そして、それに真摯になって出てきたモノを作った人を、周りの大人が支援する
という形であるべきと考えています。
これは、ある意味では、悪いモノを淘汰していく仕組みを持っていますが、
現在の社会の多くを回している、経済の仕組みとはずいぶん違います。
私は、教育は資本主義に組み込んではいけないと考えています。
これについては、いつか詳しく述べたいと考えていますが
充実している、とは?たとえば、数学の教科書でいえば
- 初めて勉強する人の場合
- 数学の得意な人は、前から順に読んでいき、問題も自分で解き確認し誤りを正し、次の分野へつながる
何があっても、以下の事柄は些末なことにすぎない。
- デジタル教科書をどんな電子書籍端末に入れるか?
- 教科書がどのようなシステム(開発環境・配布システム)で作られているか?
- デジタル教科書がビジネスモデルに乗るか?
当然のことながら、これら「些末」なことも充実するべきである。教科書をすべて無料で配布していたら、配布する人は生活できなくなり、結果的に、よい教科書は作れなくなる。
しかし、これらは全て「些末」であり、上記のようなことが付加価値として他を圧倒する要因になるならば、それらは自分さえ良ければ良い人間の教育なんて未来なんてどうでもよい意図から生まれるものだ。
アメリカのとある州では、州の赤字をなくすために、コストの低いデジタル教科書を導入していると聞くが、言語道断である。それに賛同する大人たちは、自分たち大人の尻ぬぐいを子供にさせるほど、大人としてのプライドはないのか。
『教科書のビジネスモデル』について†
『教科書のビジネスモデル』などというものは、そうやすやすと語るべきでない。
もし語るならば
- 『この教科書(をよくすることへの)投資によって、
20年後の社会にどのようなリターンが返ってくるか
(これは、経済的であっても、経済的ではなく文化的とかモラル的とかでも何でも良いと思う)』
という高い視点から議論されるべきである。
ただし、一つ注意をしたい。
教育学には、投資に対するリターンがこれだけあった、といったことについて、客観的な理論どころか、生のデータさえ、一切存在しない。
たしかに、「○○メソッドを使って、△△の成果が出た」というデータはたくさんある。しかし、そこに因果関係があることを証明することは困難である。そういった証明を徹底して行うならば、結局のところ、人体実験になってしまうことが多い。私の考えでは、ここを科学的に行えるようになるのは、脳科学がもっと発展してからになるのではないかと考えている。
少し脱線します†
- デジタル教科書の普及、という話が盛りあがっているのは、結局、政府にとっても企業にとっても旨みがあるからだ、という声もある。私が思うに、これは事実だろう。赤字財政の政府にとってはきれい事だけでは入っていけないし、一企業が赤字を出しながら教育に尽力するわけにはいかない。今の社会のシステムでは、残念ながら、大企業が「こんなに社会的に有用なことをやっています」と言いながら、実際に有用なことをやっていても、赤字を垂れ流すことは大変に難しい。とても残念なことだが。
しかし、私は、別に政府や企業が利益を上げても構わないと思っている。もし作られたデジタル教科書が最高の教科書ならば、作った側がそれ相応の利益を得てもよいではないか。あげた利益の使い道によっては、非難されてしかるべきだと思うが。
- アメリカのとある州のように、「あの何冊も分厚い教科書を抱える通学から解放される」と共感を呼びそうなことを言っておいて、「デジタル教科書にすると教科書の作成・管理が楽になって財政赤字が助かる」ことが本音であるようなことになってはいけない。これは要するに、オトナの失敗(財政赤字)を、子供に負わせているにすぎない。
- 問題はただ一点、作られるデジタル教科書は、書かれている内容が素晴らしいものになるのか?
私が興味あるのは、この一点に尽きる。
iPadだろうとタブレットPCであろうと、プラットフォームが似たようなものであれば、最終的にはその中身がどれだけ作り込んであるか、それがすべてである。
そして、教科書は、ワクワクするためや、楽しむためにあるのではない。それらの重要度は二番目以降で、一番の目的は、勉強できるようになることだ。
- 正直に言うと、政府と民間企業がタッグを組んで何かを作る、という「普通のやり方」では、私には良いものをできる期待がない。なぜなら、教育を変える、とはそんな生やさしいものではないからだ。
- ニュースでたくさん流れた「デジタル教科書教材協議会」も、委員の中で現職の教師が過半数を占めているわけではないというだけで、私には一切信用できない。PCやネット環境という「仕組み」を提供する側が主でその中に教師のプロがアドバイザーでもあるかのように参加しているなんて、論外である。教師のプロが主導し、その人たちが必要と思う想いを、仕組みを用意できる人たちが支えていく、でなければありえない。
- もっとも、教師のプロが集まって議論して、うまくいく確率は大変低いので、人選が大変難しい。これはこの話とは別問題だが、
- 大企業のトップや大臣ならば、それぞれの教育論があるのだから、よい教育ができるのでは、という考えは、幻想にすぎない。実際に学校で通年の授業をした体験がないならば、学校で行われる教育のプロになることはできない。小学生を教えるのと、中学生を教えるのと、高校生を教えるのと、大学生を教えるのと、一度社会に出た人を教えるのでは、まったく質が異なる。
本当に、よいデジタル教科書を作りたいと思うならば、既に現場で授業の経験をある程度積んだ人たちが半数くらいは集まり、これまで自分が教室で教えてきて積み上げてきた教育論というプライドを、いろんな人に切り刻まれいいところ取りをされ、自分の欠点もたくさんさらけ出される、そういう覚悟のある人たちが、真剣に議論し、物を作っていかない限りは、無理ではないかと思う。
正直なところ、私が以前本に寄稿したとおり、教員というのは「授業をするためのまともな研修」というものを普通は受けていない。むしろ最近では、研修の場がないことを恐れ、教員になろうという人がわざわざ塾(教師になるための)に自腹で通うくらいである。