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- デジタル教科書についての私見(その0〜試作品) は削除されています。
はじめに†
デジタル教科書についてのニュースが、最近多く見られるようになりました。
電子書籍が本格化したこと
そのうえで、これらのことも作用していると思います。
アメリカで
韓国で
私の見ている限り、は、本当に必要なのか?
必要ならば、どうあるべきか?
必要不必要に関わらず、どのようなことを考えていくべきだろうか?
ということを私なりに記していこうと思います。
デジタル教科書の例†
まずは、実際にデジタル教科書の例を挙げておきます。
それぞれが考えていただく材料になればと思います。
- ただ、正直、数学の教科書のデジタル化は、理科や社会に比べて利点が少ないです。
その点は、ご理解いただければと思います。
- 必要とされるもの
- タブレットPC(動画、しおり、いずれにも対応しています)
- iPad、(画面の大きなタッチパネルの)携帯電話など
- 上記がなければ、通常のPCの画面で。電子書籍とは感覚は違うと思いますが、参考にはなると思います。
- 既存の「紙」媒体を、電子化しただけの例
- 13th-noteの教科書をダウンロードして、表示してください。
- ふさわしいソフトを使えば、PDF上に書き込みなどできるでしょう。
- 少し「デジタル教科書」のような例
- 近日公開予定の、数学A第4章「平面図形」の作成途中ファイルです。
- 目次から、各ページへジャンプできます。
- p.2, 3の赤い枠のある部分に、動画を埋め込みました。
- 残念ながら、iPadはPDF内の動画再生に対応してないようです。すみません。
- これらの機能を、より汎用的に利用できるための解決策は、どなたかの助けを仰ぎたいところです。
(たとえば、iBooksの機能をフルに使うには、動画も含めてepub形式に変換せねばなりません)
数学のデジタル教科書について†
13th-noteの教科書は、カラーを使っていません。白黒です。
それは主に、13th-noteの教科書が、数学の教科書だからです。
カラーにしたり、キャラクターを入れたり、
優先順位がと思いました。
他の科目では、もちろん、カラーは不可欠になります。
デジタル教科書について†
どんなデジタル教科書であるべきか†
「どんなデジタル教科書であるべきか?」
それは、その教科書の中身が、充実しているかどうか、である。
何があっても、以下の事柄は些末なことにすぎない。
- デジタル教科書をどんな電子書籍端末に入れるか?
- 教科書がどのようなシステム(開発環境・配布システム)で作られているか?
- デジタル教科書がビジネスモデルに乗るか?
当然のことながら、これら「些末」なことも充実するべきである。教科書をすべて無料で配布していたら、配布する人は生活できなくなり、結果的に、よい教科書は作れなくなる。
しかし、これらは全て「些末」であり、上記のようなことが付加価値として他を圧倒する要因になるならば、それらは自分さえ良ければ良い人間の教育なんて未来なんてどうでもよい意図から生まれるものだ。
アメリカのとある州では、州の赤字をなくすために、コストの低いデジタル教科書を導入していると聞くが、言語道断である。それに賛同する大人たちは、自分たち大人の尻ぬぐいを子供にさせるほど、大人としてのプライドはないのか。
『教科書のビジネスモデル』について†
『教科書のビジネスモデル』などというものは、そうやすやすと語るべきでない。
もし語るならば
- 『この教科書(をよくすることへの)投資によって、
20年後の社会にどのようなリターンが返ってくるか
(これは、経済的であっても、経済的ではなく文化的とかモラル的とかでも何でも良いと思う)』
という高い視点から議論されるべきである。
ただし、一つ注意をしたい。
教育学には、投資に対するリターンがこれだけあった、といったことについて、客観的な理論どころか、生のデータさえ、一切存在しない。
たしかに、「○○メソッドを使って、△△の成果が出た」というデータはたくさんある。しかし、そこに因果関係があることを証明することは困難である。そういった証明を徹底して行うならば、結局のところ、人体実験になってしまうことが多い。私の考えでは、ここを科学的に行えるようになるのは、脳科学がもっと発展してからになるのではないかと考えている。
少し脱線します†
- デジタル教科書の普及、という話が盛りあがっているのは、結局、政府にとっても企業にとっても旨みがあるからだ、という声もある。私が思うに、これは事実だろう。赤字財政の政府にとってはきれい事だけでは入っていけないし、一企業が赤字を出しながら教育に尽力するわけにはいかない。今の社会のシステムでは、残念ながら、大企業が「こんなに社会的に有用なことをやっています」と言いながら、実際に有用なことをやっていても、赤字を垂れ流すことは大変に難しい。とても残念なことだが。
しかし、私は、別に政府や企業が利益を上げても構わないと思っている。もし作られたデジタル教科書が最高の教科書ならば、作った側がそれ相応の利益を得てもよいではないか。あげた利益の使い道によっては、非難されてしかるべきだと思うが。
- アメリカのとある州のように、「あの何冊も分厚い教科書を抱える通学から解放される」と共感を呼びそうなことを言っておいて、「デジタル教科書にすると教科書の作成・管理が楽になって財政赤字が助かる」ことが本音であるようなことになってはいけない。これは要するに、オトナの失敗(財政赤字)を、子供に負わせているにすぎない。
- 問題はただ一点、作られるデジタル教科書は、書かれている内容が素晴らしいものになるのか?
私が興味あるのは、この一点に尽きる。
iPadだろうとタブレットPCであろうと、プラットフォームが似たようなものであれば、最終的にはその中身がどれだけ作り込んであるか、それがすべてである。
そして、教科書は、ワクワクするためや、楽しむためにあるのではない。それらの重要度は二番目以降で、一番の目的は、勉強できるようになることだ。
- 正直に言うと、政府と民間企業がタッグを組んで何かを作る、という「普通のやり方」では、私には良いものをできる期待がない。なぜなら、教育を変える、とはそんな生やさしいものではないからだ。
- ニュースでたくさん流れた「デジタル教科書教材協議会」も、委員の中で現職の教師が過半数を占めているわけではないというだけで、私には一切信用できない。PCやネット環境という「仕組み」を提供する側が主でその中に教師のプロがアドバイザーでもあるかのように参加しているなんて、論外である。教師のプロが主導し、その人たちが必要と思う想いを、仕組みを用意できる人たちが支えていく、でなければありえない。
- もっとも、教師のプロが集まって議論して、うまくいく確率は大変低いので、人選が大変難しい。これはこの話とは別問題だが、
- 大企業のトップや大臣ならば、それぞれの教育論があるのだから、よい教育ができるのでは、という考えは、幻想にすぎない。実際に学校で通年の授業をした体験がないならば、学校で行われる教育のプロになることはできない。小学生を教えるのと、中学生を教えるのと、高校生を教えるのと、大学生を教えるのと、一度社会に出た人を教えるのでは、まったく質が異なる。
本当に、よいデジタル教科書を作りたいと思うならば、既に現場で授業の経験をある程度積んだ人たちが半数くらいは集まり、これまで自分が教室で教えてきて積み上げてきた教育論というプライドを、いろんな人に切り刻まれいいところ取りをされ、自分の欠点もたくさんさらけ出される、そういう覚悟のある人たちが、真剣に議論し、物を作っていかない限りは、無理ではないかと思う。
正直なところ、私が以前本に寄稿したとおり、教員というのは「授業をするためのまともな研修」というものを普通は受けていない。むしろ最近では、研修の場がないことを恐れ、教員になろうという人がわざわざ塾(教師になるための)に自腹で通うくらいである。
紙から電子書籍へ†
デジタル教科書とは何か?†
デジタル教科書、または、電子教科書とは、電子書籍の端末で読むことのできる「教科書」の事を指す。
では、電子書籍の端末、とは何であろうか?既に、候補はある。
「紙とは何か?」†
「紙とは何か?」現代の人にとっては愚問である。
しかし、1000年前であれば、「紙とは何か?」と聞かれても、多くの人が答えられない。
紙は日常的ではなかった。知識の伝達は、竹簡や木簡、そして何より、口伝で行われていたのであろう。紙を知識の伝達の手段とするのは当時でも便利だったろうが、コストが高すぎたはずだ。
しかし、長い歴史をかけて、人間は「紙」を改良し、大量生産できるように発展してきた。知識の伝達にも使えるように。
電子書籍の端末も、同じ道をたどるであろう。
あまり、眼の前にある電子書籍の端末に、囚われすぎないほうがよいと、私は思う。
新しいことを始めるときは、古いことも想い起こさなければならないという考えから。
キーボードで打ってノートをとって、学習できるのか?†
文字が一般的になる前は、知識の伝達・学習は、音声で行われていた。また、映像で行われていた。
それに慣れた人は、文字を通じて知識の伝達・学習することが難しい。
実際に現代でも、テレビなどに慣れすぎて、文字を通じて学習することが苦手な人たちがいる。
あれは、その人が怠けて文字を読み飛ばしているのではなく、「文字を通じて学習する訓練ができていない」だけであろう。
そこで、私が大変興味を持っている命題は
- 人間は、「訓練すれば、キーボード打ちを通じて学習することができるか?」
それは例えば
- (文字情報中心の)学校の授業を、
紙のノートに書いて板書する人と、
PCのキーボードを打って板打する人とでは、
どちらの方が、効果的に記憶に残るだろうか
である。今のところ、私は、キーボード打ちをした方が記憶に残りにくい、という結論を持っている。
私が、小さい頃からキーボード打ちでノートをとり、定期テストの勉強をしていたら、もう少し、記憶にも残りやすいだろう。しかし、本質的に紙と鉛筆の方が、記憶に残りやすいと思っている。
キーボードを打つ学習の長所と短所†
キーボードを打つ、という操作による学習はいくつかの利点がある。たとえば
- 記録するスピードが速いこと
- 検索ができること
- 複製が簡単であるうえ、かさばらない。
- 他者との共有が簡単なこと
など。
しかし、これら長所のうち
- 記録することが速いということは、一つの言葉に触れる時間が短い
ことを意味する。紙と鉛筆ならば、書くだけで覚えられたことも、キーボードを打つだけでは覚えられないことが多々ある。しかし、私が感じる最も大きな欠点は
- (現在市場に出回っている)キーボードを打つという操作は、文字を書くのに比べて大変高度
であることにある。なぜ、キーボードの下から3段目、左から2番目のキーを押すと「あ」(ないし「A」)と表示されるか。なぜ、こんな曲線(ないし線分)が表示されるのか。自分の体のどこも、そんな曲線や線分を描く運動をしていない。
正直なところ、私はこの齟齬が今でも少し苦痛である。
脳は、デジタルにはできていない。デジタルな物を入れるには、脳のどこかで変換をしないといけない。それが、紙と鉛筆の場合は必要ない。
これが、「キーボードを打って学習する」ことの欠点であり、今でもコンピューターをいっさい触れない人が一定数存在し、多くの人が「コンピューターは苦手」と言う原因ではないかと、私は感じている。
「コンピューターをいっさい触らない人たちもいる」†
電子教科書については、ネット上ではたくさんの議論が見える。
また、twitter上でも盛んに議論が起きている。
しかし、これらは社会全体から見れば、ごくごく少数派である。
このことは、重要な現実である。
電子教科書がどうなったら、成功と呼べるか、であるが、
それは、コンピューターを嫌っている人たちが、
受け容れられる「モノ」ができたときだと、私は思っている。
同時に、コンピューターを触らないと生きられない社会というのは、
私にはいささか気持ち悪い。それを実現するには、
まだ、コンピューターは成熟していないと思う。
コンピューターをいっさい利用しない
iPadはその
だいたい、私の周りには、twitterというものの存在を知らない人が多数派である。
また、ネット上では議論をしないと決めている人も、私は何人も知っている。同時に、私も基本的に、ネット上での言葉「だけ」による議論には反対である。それが有効であるのは大変に言語能力に長けて人間的に心の広い人でないとできない。
- ここから先は、やめよ。「良い教科書」を真っ向から論じるには時期尚早だ
「良い教科書」について†
「良い教科書」とは?†
- 教科書が「良い教科書」であることはどういうことなのか?実は、これを評価することは難しい。おそらく、これを不特定多数の教師で議論しはじめれば、結局、それぞれの教師の教育論の違いに落ちついてしまうだろう。
とはいえここで、私は、一つの考えを表明しようと思う。
少なくとも、数学については、実際に「良い教科書」は存在する。
数学をどう捉えるか、どう授業を行うか、といった観点を越えて。
いささか、「良い教科書」が持っているべき点を挙げようかと思った。
- 図が豊富である。
- 生徒が分からなければ、自学自習する方法が残されている。
- どんなレベルの生徒にとっても、有益な情報が載っている。
- ある人は、強調してあるところだけでも理解しようとする、すると、何らかの理解はできる。
- ある人は、大筋は1回勉強して分かったように感じる。そこでもう一度やり直してみると、1回目には気づかなかった文章に気づき、新しい理解がある。
- ある人は、1回読んで、すっきりすべて分かる。問題も、難しそうなものだけ選択して解いた。そこで、もっと難しいテキストへ移る。
- ある人は、久しぶりの復習にテキストを開ける。だいたいは分かっているので斜め読みをする。自分の記憶を呼び覚ます記述があちらこちらにある。しだいに自分の頭の中が活性化され、実際に問題を眺めながら解き、復習を終える。
- 記述と記述の間に横たわるギャップが、広かったり狭かったりしない。少なくとも一つのテーマについては、ギャップが一定である。
しかし、これらは理想論である。
結局、実際に作るときに、これら理想論をいかに高いレベルでバランス良く実現するか、それが、紙であろうとデジタルであろうと、教科書にとっては一番大事である。
デジタル教科書そのものの利点†
本来教科書には、
この構成はこのような意図をこめて作った、
この文章はこの意図から作った、
この図はこの意図から作った、
というデータを残しておき、
その教科書で育った人に、追加調査を行うことがあるべきだ。
それは、さらにその後の教育の成果のためである。
同時に、追加調査される際の教科書は、たくさんの人の眼が入った、十分に練られたものでなければならない。それを実現する方法論として、ネット上でオープンになっている教科書(≠電子教科書)というのは、たいへん実現性の高いものである。
デジタル教科書の不得意なところ†
良い「教育」とは?†
教育とは何か。
私が思うに、子供に頭を使わせることである。
しかも、日々、違うことに頭を使わせることである。
ここで「違うこと」には2つの意味があることに注意しておく。
- 一つの話題に関連して、毎回少しずつ「違うこと」で頭を使わせること
- いろんな話題の「違うこと」に頭を使わせること
それさえあれば、デジタルだろうが何だろうが、あまり関係なかろう。
問題は、デジタルな処理は「同じことをくり返す」ことが得意であるから、安易なデジタルの応用は「同じことをくり返す」ことの価値を不当に高めてしまい、教育にとって害でしかない、ということである。
丸付けはITにやらせた方が良いという話・・・そうやって、型にはめていくから、話はややこしくなる
丸付けは、貴重な生徒との対話の機会。多人数教育だと、それをやっている暇が無いんだろうけど。
今晩アナウンスはする、あとは試作品の向上に。
デバイスには†
- インターネットをつなぐ機能は載せない
- 私が小学生のとき、子供だけで勝手に市外へ出るな、という決まりがあった。行くのは保護者同伴、高学年は保護者の許可を取る。あれは、子供を守るうえでよい決まりだったと思う。なんでも検索できるという機能を子供に使わせるかどうかは、保護者に決めさせるべきだ。
- bluetoothまたはそれに準ずるものは積む。
- 教科書ないし、先生の作ったデジタル教材を生徒に配る為には必要。また、フィルタリング、ウィルス対策、青少年保護のための防御は必需。
各教室の先生のサーバーには、対策済みの専用のUSBメモリでのみ接続可能、とか。
調べて実現すること†
- PDFに動画を埋め込む
- できれば、リンク先に動画がある、はやめたいのだが・・・
- 出過ぎた真似は言わないこと
- でも刺激は入れること、テーマは平々凡々に
よい教育が…は大風呂敷なのでやめ
twitterの人をを想定した文章も、そうとう控え目に。それは本質でない。
ネットの利用についても、そうとう控え目に。
視点をどんどん書き出す†
- まだまだ、教材開発というか、教育方法というのは、未発達な分野であること
- 子供のための電子教材、デジタル教材であること
- この分野は、絶対に、作る側のもうけなどは気にせず、どうすれば、子供の学習にとって良い方向へ進むか、それを考えないといけない
- 何を教えるのか?など、作る側の視点が明瞭に出てしまう部分のフレキシブルな点を、きちんとカバーできるように
- ノートがタブレットで、学習はできる
- ここをどう、解決していくか、自分自身が人柱になることは必要かも
- 何が、電子教科書の得意分野になるか
- 画像がいるものは、意外とどうでもいいかも
- 動きがあると分かりやすいもの
- 最新のものをとり入れるスピード、つまり、内容の柔軟性に富んでいる
- 何が、電子教科書の苦手分野になるか
- 手を動かして、能動的に、自分の頭を動かす必要のある場所>>創造的思考は、育つのか?
- 教科書がすべてタブレットに入る、という幻想
- それが軽いかどうかは、分からない、だいたい、数学だけを勉強するときは、絶対に問題集&ノート&筆箱の方が軽い
- 単語帳だって、しかり
- たぶん、紙も電子教材もある、というのが理想になるだろう
- 日本は、2015年から義務化を目指しているのだという
- 電子教科書、電子教科書、という言葉が躍るのは、その言葉が分かりやすいからだ。
- しかしその一方で、注意せねばならない。多くの場合『電子』の媒体はコンピューターであり、これは伝統的に極めてオープンなコンテンツである。しかし、『教科書』とは、その作成・検定・印刷販売などの過程を見ると、伝統的に極めてクローズドなコンテンツである。
- これが引き起こしうる、おそらくほとんど目に見えない弊害には、注意を払わなければならない。もっとも、結果的にはオープンになっていくのだろうが。
- 電子教科書が入るコンピューターには、現場の先生が作った教材を入れることができる、仕組みを整えるべきである。今の教育現場が何かの閉塞感を感じているならば、その一つの原因は、先生どうしの交流が教材レベルでは行われていないことだ。全国広く見れば、生徒のやる気を引き出し、分かりやすく、後の生徒の実力のためにもなる素晴らしい教材は、おそらく数多くある。しかし、全国に広がっている教材には、そういうものは多くない。というのも、商売ベースに乗る教材は、教材を手に取るであろう成績上位者を念頭に作られている上、『眼の前の生徒になんとかして伝えたい!』という現場の先生の切実な想いは、たいてい欠けてしまうからだ。
- また、われわれは急ぎすぎている。この電子教科書云々は、流行であってはいけない。
- だいたい、パソコンを通じて勉強することは、いまだ成功したことがないのだ。印刷された紙でなく、文字が表示されたディスプレイを見て、子供は新たな知識を得られるのか、紙媒体に比べて劣るのか劣らないのか、それすら、検討されていない。
- 少し進んだ話だが、紙に100回書き取り練習をした後と、タッチペンでディスプレイ上に100回書き取り練習をした後では、漢字の定着効果は同じであるのか?それすら、分からない。
極めて、簡潔に書こう!!!!!!!!
- 小学生が勉強しているのを眼の前にしながら・・・正直、小学生低学年にデジタル教科書は、早いのでは、と感じた。小学5年からくらいでもよいのではないか。
調査方法†
- 海外の事例を検索
- 韓国は2011年から義務化
- 単語をどう選ぶか、初めてなので考える