[[つれづれ]]

#contents


***「理論派」と「感覚派」 [#z53027c6]
しばしば、「理屈っぽい人」「直感的な人」のようなカテゴリーで、人が分類されるように思います。
または「理論派」と「感覚派」とか。

この文章のメインテーマは、その、論理はどこまで重視してもよいのか、という話です。

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数学はしばしば、論理的な学問の代表のように言われます。
それはある意味正しく、高校で習う内容のうち、最も論理的なのは数学でしょう。
実際、[[13th-note数学A>高校の教科書#g7df213c]]の第1章p.16でも書いたように、数学とは

> 「正しいか間違っているかが確定できる方法のみを用い,物事を扱う学問である」

とも言えます。
論理的に整備された現代の数学においては、一度正しいと証明されたら覆されることはありません。
一方、他の学問は、多かれ少なかれ、経験や実験結果に依存しています。
2011年9月23日に欧州合同原子核研究機関(CERN)から「ニュートリノが光より速い」という実験結果を公表しました。
これは、追実験の結果次第では、現代物理学を根底から書き換える必要がおきることを意味します((そうは言っても、相対性理論のほとんどの理論は正しく残るでしょうけれども))。
数学では、そういうことは起きえません((一応、これまでどの数学者も見つけられなかった致命的な論理的ギャップが見つかる、という可能性はありますが。))。


***論理は万能ではない [#rfdbfe7e]
しかし、何ごとも、過剰な依存は禁物です。論理は万能ではありません。

第一に、「世の中には,正しいか間違っているか,完全に決定することができない問題も多い((上と同じく[[13th-note数学A>高校の教科書#g7df213c]]の第1章p.16より))」のです。
ですから、正しいor間違いの二者択一ができない内容に、論理的思考を用いることには、細心の注意が必要です。

Aという前提からBという結論を導いたとします。しかし、Aという前提が99%くらいしか正しくないならば、Bという結論も最大で99%しか正しくないのです。例外が起こりえます。
仮にその論理的思考が精緻で完璧であったとしても。

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第二に、論理的思考が完全に支配できる内容 --- つまり、正しいか間違っているか完全に決まる内容 --- であっても、論理的思考は万能ではありません。
非論理が必要なのです。

Aという仮定からBという結論が導けないか考える。しかし、それが「直感的・経験的」に導けそうであるからこそ、論理的思考を用いて導こうとするのです。
いや、そもそもAという仮定から「Bが導けるかも?」と思わせてくれるのは、殆どの場合が直感なり経験です。それを論理で確かめていく。

つまり、論理は非論理を後追いするケースが多い。
極論すれば、論理は非論理のおかげで活かされているのです。


***論理と非論理のバランス [#j8adf801]
じゃあ非論理が論理より優位か?と言われれば、それももちろん誤りです。
正しい直感を養うには?直感には誤りも含まれることが多いです。
経験を正しく積むには?経験から学んだものの、特殊な場合にしか通用しない経験則で世の中は溢れています。
直感や経験といった非論理が持つ、そういった弱点を強力にサポートしてくれるのが、論理です。

結局、この文章のひとまずの結論は
> ''論理と非論理は、互いに補完し合うものであり、互いに高め合うべきものである''

ということです。また、別の側面から言えば
> ''論理も感覚も経験も、正しい結論を導くための道具にすぎないから、それぞれの長所を活かしていいところ取りができたらいいですね''

ということです。

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そこで、冒頭の話に戻ります。
「理論派」と「感覚派」で人を分類することに、私は??と思ってしまいます((もちろん、ほんとに「理論だけで物事を進める人」「理論は一切なく感覚だけで物事を進める人」はいますけれども。))。
本来は、「理論先導型」「感覚先導型」くらいがちょうどいいように思います。

うっかり、「理論派」「感覚派」で分類しすぎてしまうと、
その先には「論理的でないと正しいと思えない」人と、「感覚的に納得しないと先へ進めない人」だけで世の中が構成されている
という極論へ突き進んでしまいます。

だいたい、「論理的に正しいから正しい」というのも、感覚に過ぎません。
もしかしたら、「論理的に正しいから正しい」という感覚は、単なるブームかもしれません((ブームと言っても、1000年くらいの周期))。
実際、論理的正しさの価値が信用されていた時代は、歴史の一部分しか覆っていないのです((もっとも、次に「論理的正しさ」の価値が著しく下がるときは、「論理的正しさ」を超越した、さらに信用できる新たな価値が浸透していることを、私は期待していますが…))。


***数学を学ぶ意義 [#c18cee63]
最後に、話を飛躍させて終わろうと思います。

人は''生まれたとき、論理的に考えることは出来ません。直感と経験だけ''です。
それが、大人になったときには、論理と非論理の正しいバランスが望ましいのです。
つまり、大人になるまでに、論理的思考力をバランス良く身につけなければならません。

一方、数学さえ学べば論理的思考を身につけるのに十分とは私は思いません。
なにしろ、数学は「論理が支配できる世界、正しいか間違いかが確定できる世界」しか扱わないのです。
数学が扱えない世の中もきちんと扱って初めて、論理と非論理のちょうどよいバランスを獲得することができるでしょう。

けれども、人間が生まれたときは、非論理しかないのです。
だから、その真逆の、論理しか通用しない世界(=数学)を学ぶことは極めて意義のあることだろうと思います。
それが、数学を学ぶ理由の最も重要な一つでしょう((そう、「一つ」でしかないのです…人によっては「論理的思考力をつけるために数学を学ぶ」という考え自体に拒否反応を示すのです。なぜなら、数学は美しいから。それもまた、数学の持つ極めて重要な顔です。))。


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