No.133 '97/12/21

「クリスマス・コンサート」


今日は「クリスマス・コンサート」です。
プログラムの「演奏にあたって」にはいつも曲目などに関する演奏意図を書くことにしています。
当日来てくださった方々に少しではありますが、曲目が持つ背景や演奏について知っていただき、聴く上の参考になればと思ってのことです。

今回も一応書いているのですが、いつもより少し歯切れが悪いかもしれません。
ここではプログラムには書けなかった本音を少し書いてみることにします。
書いていることは同じなのですが、言葉づかいが違うかも知れないです。

キリスト教音楽を演奏する時、いつも悩むんです。
私はクリスチャンです。(しかし、わけあって今は教会には行っていません。このことについてはいつか書くことがあると思います。)
私はその関係から、当たり前のこととして楽曲を選び、演奏します。
しかし、キリスト教の<布教のため>には一度もそのことを意識して演奏したことがありませんでした。
聴きに来てくださった方々の中で、クリスチャンの人たちはこの<布教に徹しない>ことを批判されることがあります。
また、一般の方々はキリスト教音楽であることにあまりにも無頓着な感じも受けます。

ですから、この種の曲を演奏した場合、演奏会場での3者(演奏者・指揮者・聴衆)のスタンスによるズレが生じないか、いつも不安を感じることが多いんです。

西洋音楽、すなわちクラシック音楽は少なからず<キリスト教>に関連します。
ミサやモテットなどというのはもちろんのこと、器楽曲、交響曲といった分野でも実は<キリスト教>の知識がいるのですね。
「クリスマス音楽」はもちろんキリスト教音楽です。
我が国では商魂たくましく、年末の大売り出しのいい機会になってはいるもののやはり本質はキリスト教文化圏のお祭りです。
その音楽を正面きってプログラムに組むことはいささか悩むことになってしまうんです。
つまりいつも中途半端になる恐れがあるというわけです。

でも、結論としての私の願いは一つです。
国籍や、言葉、習慣が違っても「喜び」「悲しみ」「怒り」「憧れ」「希望」といったことは互いに通じる、つまり理解できるということ。
ですから、「音楽」を通じて人としての「想い」を共有したい、時を超え、住む土地の距離は隔たっていても、人の<想いの温もり>を感じたいという願いなのですね。

今日の演奏、そういった演奏にしたいんです。
クリスマスの曲はいい曲が多いです。
楽しんでいただければと思っています。

'97/12/21「<クリスマス・コンサート>」終わり