No.12 '03/8/29

指揮は恐い


一度は指揮をしたいと思われるでしょう。
一生に一度オーケストラの指揮を振ってみたいと思う人は沢山いるでしょうね。
かつては私もそう思った憧れの職業でした。
しかし、合唱もオーケストラも今は振るようにはなったものの、やはりこれはそう簡単に人に奨められるようなしろものではありませんね。
指揮者とは不思議な仕事です。自分では音は出さず、身ぶり手振りで奏者の前に立って何やら空を叩いているのですから。
自分のことを棚に上げていうのもへんですが、他の指揮者を見ていると、どうしてあんなに音とずれているのに奏者が合わせられるのか不思議に思ってしまうことがあります。しかし私なんかもきっとそう思われて見られているのかもしれませんね。

結局思うのですが、指揮はやはり「目」でするものなのですね。
目を見ているとこちらの意図が分かって貰っているのかそうでないかが判りますし、奏者が何を感じているかもわかります。
しかし、それは裏を返せば、曖昧さや不勉強さも見破られてしまうということになるのですね。

合唱団を振るときはこの目の大切さを強く体験させられます。
合唱界ではあの恐ろしい「暗譜」というのが一応標準となっているものですから、指揮者は合唱団員の全員から見つめられることになってしまいます。
これは快感と言えばそう言えなくもないのですが、よく考えてみると裸にされたように実は不安でとてもとても恐いものですよね。そう思われません?

オーケストラを振る場合はちょっと事情は違うように見えます。
奏者はパート譜を見ながら演奏するものですから、演奏の始めから終わりまでずっと指揮者を見つめているようにはみえません。
要所要所でちらっと指揮者を見るだけですよね。
これだから楽だと思われしまわれそうですが、実はそうではないのですね。
オーケストラマンは見ていないようで実はしっかり見ています。
パート譜が置かれてある譜面台から、上目づかいによって鋭い眼差しでこちらを見つめています。
指揮者のミスや曖昧さを決して見逃したりしませんね。
そして彼らは目だけでなく、指揮者の体全体からかもし出される「音楽性」に反応するのですね。そして彼らが感じているその正体だと思うのですが、指揮者の「息づかい」、を感じとるのですね。

人が相手なのですから当たり前のことと言えばそれまでなのですが、相手の目を見るということはその人の感情や思いが目の奥に感じられるというだけではなく、その人の意志を表す重要なポイントともなります。
指揮者と奏者の関係ではない日常的な交友の間でも「目」を見ることは大切なことです。親近感も増しますし、印象を強く持ってもらうことにもつながります。
しかし、指揮者は恐ろしい・・・・。
何十、何百という「目」と向かい合わなければならないのですから。

No.12 '03/8/29「指揮は恐い」(「合唱講座」から移行)終わり