第50回

合唱(音楽)の《核》


ファルセット、そして胸声。
「ヴォーチェ・ディ・フィンテ」の提唱。
自然倍音に純正和音。 響き、すなわち〔共鳴〕。
それらのことをこの「合唱講座」で説いてきました。

しかし、書きながら時折危惧することがあります。
書く一方で、「大切なことを書かなくては」・・・そういつも思いながらの記載です。
決して、テクニックや発声理論だけに固執し、また絶対化を意図して書こうとしているわけではありません。
もっと大切なこと、つまり、合唱することや音楽することの《核》(本質)を本当は書きたいのですね。(いや、実のところ「発声」は書けないのだということを書きたいと思っています)

ファルセットで歌う。胸声で歌う。これは文字や図形の情報によって理解、また出来るわけではありません。
それどころか歌っている本人の声が「ファルセット」なのか「胸声」なのかを判断する、そのものが実にあやふやです。
ですから、ましてや声を矯正するとか「響き」を聴き取るとかを文章から体得することはほとんど不可能です。そう判ったほうが賢明です。

それを可能とするのは、同じ空間での「空気の振動」、そして「人格を通じて」行われた時のみです。
空気を介しての情報、つまり「人間同士」による心や身体の共振によって伝達されるべきものでなければなりません。

求める「声」は求める人の趣味・嗜好に拠ります。そしてそれは「人格」に依存していることでしょう。
求める「響き」もまた同じです。
「声」や「響き」、「歌わせ方」などそれはその「人」そのものを反映しているわけです。
別物ではありません。
純粋無垢のごとく歌われる宗教曲を人生の悲哀を表現する「演歌」調で歌うことは興味の対象には成っても、実際には音質、音域等ゆえに無謀な(無意味)な試みということになります。

各音楽ジャンルにはその歴史があり、スタイルがあります。言い換えれば、ジャンルとはそのジャンルの「人生観」「世界観」による音楽表現です。

これなんですね。
「人生観」や「世界観」、これが発声につきまとっているわけです。

私が書く「合唱講座」は声を出すということについての普遍的、共通項であるべき項目について書こうとします。(例えば、どうして声がでるか?とか、響きづくりは物理の世界でもある、とかですね)
しかし、それらを聴いて判断する段階では、聴く者の人格が作用するのですね。
ここに、様々にマニュアル化できない、つまり言葉や文では伝えられない、全人格的な「触れ合い」の中でしか判断できないという問題が立ちはだかるわけです。

ある段階までは私の「合唱講座」はお役に立てることができると思います。
しかし、ある段階からは「受け手(情報を受け取る側・受講生)」の人格に添ったレッスンでなければならなくなります。
受け手(受講者)の優れているところを引き出しながら受け手が目指す方向にしたがった指導。
それは「人格」と「人格」のぶつかり合いによって更に適切なものとなっていきます。
何を目指し、何を作り上げるのか?これをしっかり抑えておかなければなりません。

これからも「合唱講座」では普遍的・共通項などを視点や記載方法を模索しながら書いていこうと思っています。
しかし、時には少し領域を超えた書き方をするかもしれません。
でもそれは、もしかすると「本質的」なことと関わりがあるかも知れない、と懐深く判断していただいて読んでいただけましたら嬉しいです。

私の「合唱講座」の成果は、私が指導している各合唱団での演奏会で示すことができます。
それが私の書き手としての責任の取り方だと思っています。
実践で示し続けます。
しかし、書いたものは一人歩きするものです。
それを解って書いてはきているのですが、少し危惧するところを今回は書いてみました。

「発声」は文字では伝わらない。
音楽の真の喜びは文字では伝わらない。
音楽は空気を通じての触れ合いです。
そして「人」との触れ合いです。
奥深い「人格」というものとの触れ合い、実のところ、音楽は「人間」そのものなんです。

第50回「合唱(音楽)の《核》」終わり(この項次回につづく)


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