第60回

【再度】何故合唱なのか?


第60回目になるこの項、人生の節目「還暦」の数にあたります。
ということに合わせ、始めに戻って「何故合唱なのか?」の骨幹を書きたいと思いました。

「声」や「ハーモニー」は聴いてこそアドバイスできますし、指導もできます。
たとえ図などを入れて詳しく説明した文章であっても、実践を伴わなければ真(しん)成るものを伝えることはできません。
「ファルセット」、「胸声」、「ヴォーチェ・ディ・フィンテ」、純正和音、声部間の適正なバランスなどは体験し、見聞きしてこその理解です。
これまでにも沢山の質問やアドバイスを求めてメールを頂いてきました。
できるだけお応えしたつもりですが(漠然とした質問には残念ながらお応えすることはできませんでした)、しかしながらそれらは、目の前でお聴き、またお見せすることができましたら一瞬にして判って頂けるとの事柄ばかりです。
歯痒い、もどかしい思いでの執筆が多かったです。

また誤解や言葉の一人歩きも見てきました。
私の意図とは違う伝わり方で、私とは対極の意見として伝わっている、との苦い思いもあります。
このような文章を通してのコミュニケーションでは致し方のないことだとは分かりつつ、やはり残念に思ってしまいます。

(「ヴォーチェ・ディ・フィンテ」という概念が難しいせいか、少し誤解を招いているようです。当然、ファルセットではありません。また強い胸声を含んでいるわけでもありません。ファルセットに極近いものから、危機的胸声寸前の声までを含むと言っておきましょうか。「ヴォーチェ・ディ・フィンテ」の範囲は広いとお思いください。ただ決定的な事柄は「ファルセット」要因、つまり声帯の伸展とそれを助長する筋肉群のバランスである、ということです。これらを伴ってこそ「ヴォーチェ・ディ・フィンテ」だと言えます)

私の求めるものは、厳密な意味に於いて現にモデルがあるものではなく、理想とする部分もあることから「理想」と「現実」という問題もはらんでいます。
しかし私が求める、心を震わす、確かな「声」や「響き」の演奏がヨーロッパのアンサンブルや歌曲演奏会で行われ、私が目指そうとする思いの現実性は有り得るとの確信でした。
具体的な声楽家やグループ名はここでは控えますが(示すことで参考にはしていただけますし、私の根拠も知って頂けるとは思うのですが、これすらも真が伝わらなかったり、誤解をされたという経験があります)、それらの演奏は正に体が震えるほどの素晴らしいものがありました。
しかし残念ながら、私が感動したヨーロッパの響き(コーラス)は私が思うほどには我が国での評価は定まって居らず(我が国での主流であるオペラ中心の伝統的な発声では無い故の理由だと解します)、また歌曲で示された私の理想とも一致する声楽家の演奏においては、その後発声が変わり、今はその声を聴くことができないでいます。(どうして発声が変化したかについては重要なこととして詳しく述べる必要がありますが、ここでは省きます。いずれ書きたいと思います)
ヨーロッパ音楽演奏史の流れで発生したそれらの演奏は(発声の再発見ともいえます)、私の土台であり、感動の実感であり、そして実践においての根拠となっています。

では、私が「合唱」に求めたもの。それを再度、簡潔に、順を追って書きましょう。


1)「自然倍音に準拠した響き」です。

そして

2)合唱音楽(声の合わせ)の楽しさです。

もう少し詳しい説明を。

1)は純正和音(純粋のハーモニー)の体現です。(これが基本となってゆくゆくは音楽性、感情の起伏による若干の調整和声へと進んで行きます)

2)は他の声を聴く、ということです。

通常、私たちは純粋な響きを体感する機会がありません。学校での授業、そして部活のコーラスですら徹底しての「純粋和音」を体験するカリキュラムはありません。(もちろん、中には重要視されている指導者が居られることは知っていますが、まだまだ全体として徹底されているとは言い難い実情だと思います〔最近ではネットで様々な音律や和声の違いを聴かせてくれるサイトがあるようです。一度お聴きになることをお勧めします〕)
「ド・ミ・ソ」の和音の美しさ、これが基本です。
三声が合わさってのこの和音、純粋の響きを得たときの感動は音楽の原点です。
複雑な和声の組み合わせでも、この純粋な響きを体現してこその和声感です。体現があるか無いかとは天と地ほどの違いを生じます。
純粋和声は人間の心底を呼び覚まし、感動の共振、人としての息吹の振動を与え続けます。
合唱の基本は「純粋和音」にある、これが私の見解です。そしてもう一つ。

他の声を聴く、声を合わせる楽しさ。これは和音にも通じるものですが、「己一人ではできないこと」への感動です。
一人ならば「独唱」の喜びがあります。
何故合唱か?それは一人ではない喜びを求めるからです。
他の声を聴き、それに合わせる。互いが聴き合って純粋な和音を求めて協力しあう。その喜びに尽きます。
作品によっては、協調、協和を求めない作品もあります。
しかしそれは歴史の流れで起きたもの、個人的な様式観に因るものです。立ち返っての感動の基本、それは協調、協和にあります。

力強さ、壮大さ、華麗さ、深遠な世界、といった演奏の感動はそれら(純粋和音、他との合わせの喜び)があっての事柄だと私は思っています。
合唱の魅力は?と問われれば、自然との協和(和声)、そして人との交わり、協調です。
「合唱音楽」は「合唱」という「集合体」として見た「力観」や「見かけ」などの魅力だけではなく、メンバーたちが醸し出す協和・協調・そしてリアリティー(現実性)にこそ魅力が溢れるのではないかと私は思っています。

蛇足ながらもう一点。

「自然倍音に準拠した響き」でのハッキリ聴くことのできる歌詞です。

伝統的な発声での歌詞聴き取りは難しいと私は昔思いました。それが切っ掛けで新しいメトードを作ることを決意したと言ってよいと思います。
日本語が明澄に、明瞭に聞こえる。歌詞カードなしで鑑賞できる。これが目的でした。(そこに正しいピッチで、音程で、が加わりますが)
実際、皆さんにも経験して欲しいのですが、伝統的な(ヨーロッパを中心とする発声と一応いっておきます)発声と日本語とは相性はよくありません。(どこか無国籍の感じです)
かといって伝統的な発声に拠らない日本語の発声はどこか響きに潤いを感じない人が多くいます。
ポピュラーの歌はマイクを使います。アカペラと呼ばれている分野ではハモリは充分にありますが明らかに伝統的な響きとは異なりますしマイク的、電気的な響きも加わっています。
純正ハーモニーに基づきながら、そして生の声で(電気的な装置で増幅することなく)深みのある発生で現実には500〜1500収容するホールを鳴らす。
この難行に取り組まれることをお勧めしたいです。
さまざまなことが実感として感じられると思います。
新しい発見やアイデアが浮かぶかもしれません。
或いは「合唱」の原点を見つけることに繋がるかも知れません。
先にも書きましたが、「伝統」と「新しい試み」はいつも軋轢を生みます。
歴史的な必然性ということもあるかもしれませんが、「伝統」の上に「新しさを加える」、それも「日本的なもの」として定着するものを。
難しい課題かもしれませんがそれを作りたいとのメソードです。
純粋和声、聴き取れる歌詞、良い響き、正しいピッチ・音程、それらが一体となった「合唱音楽」の感動を。
その「合唱音楽」づくりに、1)「自然倍音に準拠した響き」と2)合唱音楽(声の合わせ)の楽しさを基本(優先)とするメソードが私の目指すものだ、との見解をここに明らかにしておくことにします。

第60回「【再度】何故合唱なのか?」この項終わり


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