第66回 〔2020/05/29〕

〔発声法の指導〕


いきなりですが、結論から。
「発声法」を教えることはできません。(「指揮法」と同じです)
この結論をしっかりと押さえた上でその根拠を書いていきます。しかしそれは決して、「発声法」の否定ではありませんし、「発声法」は必要ない、ということではありません。
これははっきりと書いておきます。
では「発声法」とは何なのだ!ということになるのですが、
それは発声する者の「イメージ」、敢えて言うならば「音楽観」「人そのもの」です、という結論です。

発声法に関わってきてからつくづく思います。人間の身体は〈不思議〉に満ちているということ、
そしてそのそれぞれの働きは固定されたものでなく柔軟に変容し変化に満ちている、ということ。
発声に進展がないということならば、その人のイメージと動きが異なる、あるいはイメージが固定化されすぎている、ということだと思います。
全ては「イメージ」なのですね。発声する人のイメージしていることで作用し、各器官を変化させ、適切な動きを与えて進展させていく、そう私は考えています。
身体の全て、細胞に至るまで人間の「イメージ力」が強く携わっている、ということです。

私が「発声講座」を開講し、最初に話をするのは「私がどのような立ち位置で、どのような音楽をイメージしているか」についてです。
「私は声楽家ではありません」「発声法について長く、専門的に師事したこともありません」
「その私がどのようにして発声を教えるようになったか」を語り、具体的なイメージを告げ、そのための理論を示し、
実際に私が声を出し、聴いて頂き、私のイメージするものと異なる声も聴いて頂き、理論と演奏が一致していることを先ず知って頂くことから始めます。

「発声法」を学ぶことの中で大切なこと、それは教えて頂く先生の演奏(歌・器楽演奏)を聴くことです。
その音楽に納得し、感銘を受けることからしか〈学び〉はありません。
教える内容と実演が異なれば、またそのように聞こえたならば師弟関係は成り立たないと私は思います。

では演奏家ではない人が「発声法」を教えられないのか?ということにもなりますが、それは〈教えることができる〉、いや〈とても有意義なアドバイス〉ができると確信します。
発声に関する知識が有り、各器官の動きが身を以て感じる事のできる「聴力」を持っている、という条件が必要ですが。
世界にはそんな素晴らしい「発声の先生」がいらっしゃると聞き及んでいますし、有名な演奏家でない方が「良い先生」になる、ということも充分に想像できます。

私の発声理論の原点は、パイプオルガンの演奏、その響きと調律法です。
歌は幼い頃からよく人前で歌い、小学校高学年から器楽の世界に入り、中学では吹奏楽と声楽(ソルフェージュ)を学び、指揮をし、
その後はパラレルで音楽道。
パイプオルガンでそれらが統合したものとなりました。純正律とか、音律とか、ポリフォニー音楽であるとかに位置しているのはその事が要因です。

発声法にとって、母音、子音の響き作りが重要です。
「言葉」の発音法が全てを表すといっても良いでしょう。母音の響き作りが一番大切であることは自明です。
しかし、子音もそれに関係付けられた響きとならなければ音楽としては未熟ということになります。
「言葉」は「人となり」です。想い(感情)、そして意志。その表現でなければなりません。
表現力が乏しければ「発声」も人の心には届くことは乏しくなると思います。

「発声法」とは機械を操るようなマニュアルではありません。
人間が人間らしく響きを作るという創造的・生理的な行いです。
それには人間すべての分野への探索、探求でなければなりません。それには自然界に身を置くということが前提です。

最後に
「教える」ことは褒めることだと思っています。
それは「良いところ」を見つけてあげることです。自信を付けてあげることです。本人が喜びを持つことです。
そうすることで、「欠点」に気が付き、修正していくというプロセスが生まれます。
「欠点」を見つけること、言ってもらうことがレッスンであり、良いことだと思っていらっしゃる先生や生徒さんが多いようです。
しかし、その方法だけでは本物は生まれないと私は思っています。
本物とは、何度も書いてしまいますが〈人となり〉の表現としての魅力です。
長い時間をかけ、寄り添い、人としての〈ありよう〉を通じ、交差させてこその「発声法」でありたいと思っています。

第66回〔発声法の指導〕(この項終わり)


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