第102回('05/05/31)

"Maria" in DVD

(一部改訂:6月5日)

私のレパートリーの中核を成しているのは「西洋キリスト教音楽」です。
単に「宗教音楽」としても良いのですが、正確を期して明確に記せば「キリスト教」、それも「プロテスタント系」の「キリスト教」ということになります。

現在は弾くこともなくなってしまいましたが、約30年間教会のオルガンと共に過ごしたことが大きなその要因です。
高校生の時に受洗したのですが、その以前からも、そして当然ながらそれ以後もずっと「宗教」に関心を持ち続けている人生です。

日本の総人口の1%にも満たないといわれている「キリスト教信者」。その中にいる困難性と、自分で選んだという自負心との間での心の葛藤は、私の人格を形成した重要な事柄だと思います。
十字架に掛けられたイエス。その苦渋の重さに胸が痛み、そして十字架への道を歩ませた者たちの思惑、保身や欲望というものに怒りを覚えます。
そのイエスに付き従い、従順を誓いながら逃げ去った弟子たちの弱さと悲しみに心が痛みます。
イエスを十字架へと向かわせた当時の権力者たちと現代の権力者たちとがダブる私です。
イエスを信じ、期待し、希望を持った民衆たち。イエスの存在を疎ましく思う者たちが取った十字架への道、その者たちが十字架へと向かうイエスに罵声と唾を吐きかけたであろうことを想像するとき、信じることの儚さ、弱き立場に追いやられている人たちの無力、そして人が持つ残忍性、それらに時を超えて私の心はうずき続けます。

私にとっての「キリスト教」は<私の生きる場、視点>を定めることになりました。
もの言えぬ、もの言えず、事果たせぬ、事果たせず、思いを遂げられぬ、思いを遂げられず、忘れられ、利用され続け、うとまれ、傷つけられる者、その場にその視点に立つ。

ずっと気になっている人物がありました。
ずっと頭から離れない人がいました。
二人いるそのうちの一人は多くの作曲家によって賛美され、歌われてきた人。
しかし指揮する中、私の脳裏をかすめるもう一人がいます。
かすめる人が最も私にとって気になる「人」。
「マリア」という名前の女性。
よく歌われるのは「聖母マリア」
気になるマリアは「マグダラのマリア」

「マグダラのマリア」(エロスとアガペーの聖女)岡田温司 著 中公新書刊を読みました。
気になっていた「マグダラのマリア」が一層際立って私の脳裏に焼き付きます。

「マグダラのマリア」、娼婦と結びつけられたイエスの弟子。
弟子たちと共に福音の旅をする「マグダラのマリア」、十字架の傍らに立つ「マグダラのマリア」、埋葬の折りにも復活の場でも重要な役目も受けた「マグダラのマリア」。
弟子の中で一番愛され、信頼されていた「マグダラのマリア」。
しかし、それが故に弟子たちの間で確執となった「マグダラのマリア」。

現代での「ジェンダ」とも重なって、関心は尽きません。

この書の後書きに、「マグダラのマリア」に関連したDVDが紹介してありました。
その中から手に入ることのできた
ピーター・ミュラン監督・脚本「マグダレンの祈り」(2002年ヴェネチア国際映画祭<金獅子賞受賞>)と
ジュゼッペ・トルナトーレ監督・脚本「マレーナ」
を観ました。(あの「ニュー・シネマ・パラダイス」もトルナトーレ監督でした)
映画ですから商業的な見せ場としてのシーン、あるいは表現の物足りなさを感じたりするシーンもあるのですが、セリフや美しい映像、そしてなにより監督のメッセージというか視点の確かさ、人間の描き方という点においては大いに魅了されるものでした。
共通していること、それは人間としての「優しさ」「暖かさ」「したたかさ」、そして人間の奥深く潜む自覚されない「残忍性」「残虐性」。
久しぶりに強く余韻を残す映画でした。

汚れなき「聖母マリア」、そしてもう一方のマリアは悔い改めた罪深き元娼婦「マグダラのマリア」。
これら二人の女性像、それは我々人間が(男がといって言い過ぎではないでしょう)抱き続けてきた理想であり、揺れ動く想像上の人物像です。

これからも私は「キリスト教」にこだわり続けるでしょう。
こだわり続けることで「人間」を優しく観ることができる、そう願っているのだと思います。
「人間」のあらゆる部分に「光」を当てたい。生かされる「光」を放射しあう。そのような「音楽作り」をしたいと思っています。

第102回('05/05/31)「"Maria" in DVD」この項終わり。


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