第111回('07/04/08)

バッハ「ヨハネ受難曲」(オペラ化)を総括します《その2》

東京での「ヨハネ受難曲」公演に対してある新聞社に「演奏会評」が掲載されました。
その大意は以下のものでした。

1)バッハの受難曲を劇化することへの疑問(必然性を感じない)
2)合唱団の水準は高い
3)一部のソリストに対する批判

まとめるとそういった内容だと思うのですが、実際の文章はもう少し入り込んでいてすっきりしません。すんなりと心に届かない文章だと私には感じられました。
いや、もう少し具体的な感じ方を書くならば、なにか「適切さの欠如」と「偏り」を感じる文章です。
どういった内容なのか?書いていきましょう。
まず最初こう書き始めます。

「バッハの受難曲を「オペラ化」する。この、一見魅力的な課題に取り組んだ団体は、内外に存在する。国内では二期会が1985年に、《マタイ受難曲》のオペラ形式による上演を試みたこともあった。だが受難曲は本来、聖書朗読に代わるべき典礼音楽である。バッハの声楽作品でも、配役の決まっている世俗カンタータならオペラに分類することも可能だが、受難曲や教会カンタータはこの限りでばない。例えば《マタイ》のオリジナルのパート譜では、ソリストはソロも合唱も歌うよう指定されている。音楽史の書物でも、「オペラ」と「宗教劇」は区別されるのが常である。だからこの種の試みは、「オペラ化」ではなく、「劇化」 「視覚化」などとする方が適切ではないだろうか。」

う〜ん、世俗カンタータならオペラに「分類する」ことが可能なのだろうか、「分類」していいのだろうか?そのことも引っかかるのですが、受難曲の例にいきなり「マタイ受難曲」の合唱パート譜を用いて、配役は無かったのだからオペラとはいかないだろうと展開されようとされるのがどうも唐突すぎる印象。
また、「『オペラ化』ではなく『劇化』『視覚化』などとする方が適切ではないだろうか」と書かれていますが、その違いが不明確ですし、そもそも言葉の問題なのでしょうか?
チラシやプログラムは「劇的」「視覚化」とすればよかったのでしょうか?「宗教劇」と銘打てばよかったのでしょうか?

こんな風に細かいところに目がいってしまうのは、その例に出したのが「マタイ受難曲」だったからですね。
私は「ヨハネ受難曲」を演奏したのであって「マタイ受難曲」ではありません。
「ヨハネ受難曲」に対する見解をまず述べていただきたかったと思ったのですね。

もう少し言葉にこだわるなら
私が書いたプログラムの「演奏にあたって」に以下のように書いています。


「典礼音楽としての「ヨハネ受難曲」を劇化する。
その構想は何回目かの「ヨハネ受難曲」演奏の頃にありました。
福音史家、イエス、ペテロ、ピラト、そしてユダヤ人たち群衆とのやり取りはまさに迫真に満ちたドラマです。 音楽だけでなく、動きを伴った演奏は更なる「現実感」を伴ったドラマとして表現できるのではないか、その思いは強く私を惹きつけました。
教会音楽史の中では、「受難記事」は配役しながら語られ、また演じられたことが記されています。
慎重にではありますが、教会内外においても今で言う「オペラ」風に演奏されることが行われていました。」

そして続いて書きます。

「バッハの音楽を「オペラ化」する。
試みとしては魅力ある課題です。
世俗カンタータなど可能な作品はいくつかありますが、典礼音楽としての「受難曲」を「オペラ化」するのは慎重にならざるを得ません。
しかし、バッハの両受難曲「ヨハネ」「マタイ」を比べ、その福音書の劇的要素の強い記事からしても「ヨハネ」の劇化は可能であり、妥当だとの思いに至りました。」

このように私の見解を述べています。
書いているように、慎重に世俗カンタータや典礼音楽としての受難曲の違いを考慮してなおも、私は「ヨハネ受難曲」をオペラ化、或いは劇化しようとしたわけです。
聴衆がより理解しやすくなるために、その一点において。

しかし、この方は「筆者には残念ながらその必然性を感じることができなかった」とそこで結論付けます。

しかし、その後にその筆者が書いています。

「劇化を通じて音楽の構造がはっきりと見えた部分もある。合唱を加えた複雑な構造を持つ第21曲のレチタティーヴォは、視覚によって曲にあるドラマがよく理解できた。」
と。
でもこの方は<そうであっても>「劇化」を拒もうとされる。

「だが福音史家の叙述的なレチタティーヴォを念入りに視覚化することは、オペラに過剰な演出を施すのと同様、音楽への集中を妨げるように思われた。」

と言われるのですね。
「よく理解できたが、音楽への集中は妨げられた」と。

それから、さらりと「オペラに過剰な演出を施すのと同様」と書かれるのですが、「オペラに過剰な演出」とは?
この問題、こんなに簡単に書いていいものでしょうか?
とはいえ、この筆者は私の意図するところは認められた、その成果はあったと言っているわけです。(構造がはっきり見え、ドラマも良く理解できた、と)
この時お出で頂いていた多くの方々と同じく、この筆者も、私の意図すること(聴衆に理解していただきたい、視覚化によってより身近に感じていただきたい)、すなわち作品へのアプローチの一端は感じていただけたわけです。 それでも必然性がないと拒まれるわけです。

私はバッハの「ヨハネ受難曲」を「オペラ化」「劇化」しなければならない、あるいはバッハがそう意図していたと主張しているわけではありません。
いや、バッハにはその思いはなかったでしょう。
バッハやその時代や教会音楽を少し調べれば、それは当然だと識ります。
私の意図はするところは、聴衆に解っていただきたい、音楽を全身で捉えていただきたい、より作品に近づいていただきたい、そのことの一点です。

「合唱」に関しては高水準だとの「評」です。

「大阪ハインリッヒ・シュツツ合唱団は、音楽と密着した高水準の歌唱を展開した」

しかし、劇化、オペラ化は不必要だとの持論に多くのスペースを割き、演奏の中心の一つである合唱に関してはこの一行だけ。(「音楽と密着した」と書かれたのは少し嬉しかったです。しかし、管弦楽に対しては何もありませんでした)

そして結びです。

「一方で、数人のソリストの起用には疑問が残った。」
これで終わりです。(実はソリストの実名を載せています)
う〜ん、と唸る私です。
この「評」、いってみれば、「『ヨハネ受難曲』の劇化は必要性ない!」とのことだったわけです。
始めから何も「無かった」というわけです。



開かれた音楽によって、人の「業(わざ)」「行い」の尊さを感じたいと思う私です。
演奏会に携わった多くの方々の「業」「行い」を感謝をもって尊敬する私です。
当日来ていただいた方々とそのことを共有できることが最良の喜びです。
そして、この記事を書かれた筆者の「業」「行い」を尊びたい!そう思う私です。
そのことが「演奏会」を開くという原点だと思っています。
身を削り、「誠心誠意」音楽することとはこの全てに関して感謝することだと思っています。
その中でこそ、真実の音に近づき、掴むことが出来るのではないかと思っています。
頭だけではなく、体を通じて、人による「業」の中の悲哀と喜びを感じる。
そのことで「人」としての「尊厳」を基として互いに見ることが出来るのではないか。
自分と対峙し、挫折も味わい、不安と闘い、困難を乗り越え、何度も失敗しながら、喜びを知る。それが音楽する喜びと繋がる。

「個人」と「アンサンブル」という問題は、私が抱く「開かれた音楽」という理想郷に向かうための大きなテーマです。

合唱団としての力量が増すごとに、ソリストへの要望が強く示されてきました。
合唱団創設時代からの問題点だと周りには見えていたと思います。
しかし、その時から私の主張は変わっていません。
それは「真実の音」という一点です。
「真実の音」というのは演奏する作品に対する「共感」です。
「共感」は共同作業の中で生まれます。
誤解されるかもしれないのですが敢えていうならば、「ソリスト」が全体から突出ということになってはなりません。
調和、協和という基によって培われた「共感」が薄くなってしまう「全体」では大きなものを見失ってしまいます。
(当然ながらそういったギャップ、突出を意図とした作品においてはその限りではないことは確かです。しかし、ここで言っていることはバッハのカンタータや、受難曲に関してです。それらはバッハが指導する生徒たちやその信奉者たちによって編成されていたということに因ります)
全体として、「アンサンブル」と「独唱」とが解け合い、そして協調し合える演奏でなければなりません。
特に私のように、これからの「日本文化」の一つとして新しいサウンドや形態を模索している者にとっては「共に創る仲間」としての共同作業はとても重要なことです。
ソリストと合唱団員とが対等な者として、共同作業する仲間としての互いに尊敬できる関係でなければならないわけです。
「人」との間で協調、協和する喜びを知る。
これがアンサンブル。合唱やオーケストラはその魅力ある集合体です

我が団によるソリストの力量に満足しているわけではありません。
ソリストへの苦言はそのまま受け取るつもりです。
しかし、擁護するわけでは決してありませんが、それぞれがそれぞれの度合いがあるものの成長し続けていることを私は高く評価しています。
新しく何かを創っていこうとする段階ではこの「待つ」が必要だと思う毎日です。
合唱団の質に近づくソリスト養成が私に課せられた仕事。
外からお呼びしたいゲスト(上に書いた条件を備えた方)とも併せて重要な課題だと受け止めます。

新聞評に戻ります。
ちょっと日頃思っていることを書いてみてもいいでしょうか。
これも誤解を受けませんように。
「評」を書かれる方がどのような経歴、職業であっても、私は一生懸命その中から書かれているものを受け取ろうと思っています。
一般愛好家の方が書かれるものも大切に、心して読ませていただいています。
しかし、例えば、もしその方が質の高い合唱団やオーケストラで長年現役を務められ、その経験を生かして次の世代に繋いでいこうとされる方ならば、その貴い経験を活かせていけるよう心を尽くして読ませて頂きたいと思います。
また、ある専門分野におけるスペシャリストとしての立場の方ならば襟を正して読ませていただく所存です。
演奏するものへの温かい目と厳しい眼差しとが感じられる、そんな「評」だといいですね。
音楽史の、演奏史の一コマを綴る、その関係を示唆して頂ける「評」だと嬉しいですね。
先に広がる、人間の可能性が広がる、そんな「評」だと感激してしまうかもしれません。

いつも「評」には一喜一憂します。
人によっては「読む必要なし」「無視」だと言い放ってしまう人もいます。
しかし、私はそう思わないのですね。
「評」もまた大事にされなくてはならない大切な「文化」の一つだと思っています。
そのためにも、多くの方に読んで頂ける「評」となればと望みます。
久しぶりに私たちの演奏評に対して書いてみたくなりました。

第111回('07/04/08)「バッハ「ヨハネ受難曲」(オペラ化)を総括します」この項終わり。


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