第112回('07/04/27)

文化人類学者の音楽評

前回に少し気の重たくなるような「音楽評」の事を書いてから何かスッキリしない日々が続いていました。
書きながらも、素敵な「評」を例にすることができれば良いのに、とずっと思っていました。

今朝(07/04/25)、朝日新聞の朝刊文化欄にちょっと目を惹く写真。
ピアニスト、そして作曲家でもある高橋悠治氏が普段着のような風体でピアノに向かっています。
写真には「淡々と音楽を紡ぐ高橋悠治=池上直哉氏撮影」と書き添え。
懐かしい感じがあって(直接はお目にかかったわけでもないのですが、ずっと以前から注目している音楽家です)、そのコンサート評に目を通しました。

評者は文化人類学者の今福龍太氏。失礼ながら今回初めて知るお名前です。
しかし、その「評」良かったのですね。
久しぶりに良い文章に触れた喜びを味わいました。
専門分野に根ざしていると思われるその内容は、深く、また広がりもあってずしんと心に響きます。
読んでいて実に楽しい。異次元、イメージ、広がりや刺激があり、演奏会プログラミングそのものの魅力もあり、その場に居あわせなかったことがとても悔やまれました。

こんな風に書き始めます。
「使い慣れた思考の回路がゆらぎ、触れられずにいた感覚がざわめく。音楽の化粧がはがれ、音が野性に突き返される。
高橋悠治が舞台に現れると、いつもこんな不意打ちが起こる。内向きな「鑑賞」と「消費」を繰りかえすだけの「音楽」という制度は、そのとき一気に宙づりになる。自由で風通しのいい音の精が、産声をあげる。

いいですね。これで一気に引き込まれます。
「評」の題に「西欧から遠ざかる試み」とした意味が鮮明に打ち出されていますね。インパクトが強いです。
次に、プログラムの構成についての段落。

「10曲の断章的小品からなる「アフロアジア的バッハ」は、バッハのもっとも精緻で凝縮された鍵盤曲集「パルティータ」の第6番のさまざまな舞曲のフレーズを、断片化して組み替えたものだ。
各曲には「沈む月」 「煙の渦」 「瞬く炎」「さざなみ」といった、曖昧な自然現象の名がつけられている。イスラムの聖典クルアーンによって喚起されるような複雑なアラベスク的イメージだ。
 そんなイメージに寄り添うように、曲は堅固な構造から逸れてゆらぎ、立ちどまり、崩れ、混沌とした音の始原と戯れる。
当時のヨーロッパの音楽的イディオムの背後に隠れていた、大西洋交易に由来するアフリカ人奴隷のダンスのリズムや、モンゴル帝国を介した中国の数理論(12平均律の起源)などが、解体されたバッハから聴こえだす。
さまざまな道筋を伝って西洋音楽のなかに統合された要素の起源に遡りながら、西欧から遠ざかってゆくスリリングな試みだ。あくまで現在形の。

構成を背景の広がりと共に見事に記載しています。
読み手の「理解力」「教養」といったものも必要でしょうが、何やらとてもスゴイものが行われている、という感触は良く伝わってきます。
異空間へと誘う第二の段落部分です。

そして次に来るのは演奏者のスタンス。
「新作の霊感の源となった「パルティータ第6番」の演奏がこれに続く。演奏の豊かな一回性が命だから、過剰な練習も無用な暗譜もしない。
私たちの日常の時間のある瞬間に不意に扉が開かれ、バッハの音が砂粒のような可塑性をもった断片となって心を満たす。
拍やリズムの規則性を変化させることで生の別の時間へと入ってゆく、シンコペーション的バツハ。黒人や先住民の、踊りのこだま。

聴いていないのにその躍動感や異文化とのコラボレーションの様がよく伝わります。またその演奏スタイルを短い文章の中に的確に書き表していて秀逸ですね。

そして文章最後の段落。
「 高橋悠治への拍手は、いつもどこか控えめで温かい。この不思議な時間はいったいなんだったのか、と観客がわずかに当惑しながらも、その拍手は冷たく響くことがない。
大演奏会が終わり、喝采の拍手がホールを震わせて鳴り響く─そんな儀礼的形式性の虚構に気づいてしまえば、だれもが、「音楽」という仰々しい制度への真正なる羞恥心を共有することができるのだと、高橋悠治という存在は教えてくれる。
 覚醒の静かな響きを放つ自らの拍手の音に驚いている観客の前で、はにかんだ微笑とともにぎこちない会釈を一つ二つしたあと、演奏者はすたすたとステージ裏へと消えてゆく。
楽譜をブラブラと振り回しながら去ってゆくその後ろ姿は、私にいつも、いかめしい聖バッハヘのお祓いがいま済んだと告げる、即興司祭の秘密の合図のように見える。

これも見事にホール全体の雰囲気を伝えていますし、演奏者の人柄についても過不足無く表現しています。そして書き手自身(今福龍太氏)のスタンスや感性をそこに折り込むという実に心憎い構成です。
(文章の底に流れる高橋氏に対する確信、そして事象を見る今福龍太氏の優しさも伝わって、内容が一層説得性を増していると私には思われます)

「高橋悠治」の歩みを30年と長きに渡って追っている今福龍太氏、と紹介されています。
なるほどと頷ける内容です。
今福龍太氏自身がこの演奏会を楽しみ、内なる自身との対話をも味わっていらっしゃる。これはまさしく「生きた文章」です。
こういう「評」、私は大好きなんですね!
「この演奏会に行きたかった!」そう悔やむ私です。

第112回('07/04/27)「文化人類学者の音楽評」この項終わり。


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