第116回('07/12/11)

聴衆と幸福な時間を共有する条件とは

(2007/12/23日、一部文章を加筆しました)

長い演奏活動の中で印象に残るステージが幾つもあります。
それは良い印象もありますが、当然苦い印象のものもあります。
それは私自身の出来不出来によることもありましたし、合唱団やオーケストラの出来不出来によることもありました。
いつも誠心誠意打ち込み、出来うること全てを全身で表現して来たつもりですが、後から考えれば「足りなかったのではないか」と反省することも正直あります。
それらを良い経験と思い、次なる演奏に活かしていくというスタンスを持ち続けている、というのが私の自負できることでしょうか。

演奏の評価は聴いて下さっている方々に委ねます。それが私の基本です。
これは演奏者である限りしっかりと受けとめるべきことだと思っています。
もし、批判的なものであっても謙虚に受け取るべきとの思い、私は強いです。
確かに、評価する方の内容に納得できないと思ってしまうこともありますし、逆に、不遜と思われることを覚悟して質問をしてみたいということもあったりするのですが、最終的に思うのは、そのような「思い」を持たれたということは確かなことなのですから、先ずは考え、そして受けとめるということです。

そういった経緯の中で、「聴衆」と「演奏者」との関係を私は随分これまで考える機会を頂いてきたと思います。
どうすれば、より良い「演奏会空間」となるのか。
互いに、つまり演奏者にとっても、そして聴衆にとっても「幸福な時間」と成り得るのか。
最近、その思いを最も強く感じる機会がありました。
少しまとめて書き残しておきたいと突き動かされた印象深いものでした。

その機会とは、ある講習会での演奏です。
受講して下さる方々は「学ぶために」「知識やテクニック」を得るために集まって下さっています。
つまり「勉強会」なのですね。
こういった場合、なかなか「演奏そのもの」に対する反応が直出てこないということでもありました。
それを改めて気がつかされました。
「勉強会」にありがちな「硬い」雰囲気といっていいでしょうか。
「笑みが無い」といってもいいでしょうか。堅苦しい空気。
私が望む音楽によるコミュニケーション、それが幾分冷ややかな空気の動かない状態で取れない。
ちょっと説明がいるかもしれませんが、学ぶことにも「遊び」の要素が必要だと私は思うのですね。「遊び」の要素が緊張感や硬直感を取り去る潤滑油的役割を果たすのではないかと。
「遊び」ということばに不謹慎、文字通りの遊興にふける、という意味もありますがそいうことではないことは解っていただけるとは思うのですが、何といっていいのでしょう・・・・・、心のゆとり、余裕ということでしょうか。

とにかく、その時の演奏は心に届く、身体に受け取っていただこうとの思いで演奏させていただいたと思うのですが、どうも返ってくる反応に「重さ」を感じる私でした。

「頭で聴く」。一生懸命聴いていただいていました。素晴らしくいい意味での緊張感も流れていました。しかし「返ってこない」、のですね。
これは一生懸命「頭で聴いていらっしゃるのではないか」、そう思いました。

日本とヨーロッパの違いを殊更問題にするわけではないのですが、ドイツやその他の国での演奏に対する反応はもっとアクティブな感覚なのですね。
どんどん空気が変わっていく。もちろん熱くなるときもあれば冷えていくときもある(あまり体験したことはありませんが)。
こちらの音楽による思いによって聴衆の表情がみるみる変化していく。それを見て我々の演奏もますます表現を増していく、この関係を体験しているものですからこの「勉強会」の時の空気に大いに不安を覚えた記憶が残ってしまいました。

こう書いていくうちに、ちょっと関連するのではないかということを思い出しました。
それは、合唱団の「体の揺れ」についてです。

合唱団の演奏については多くの方からお褒めを受けることが多くなりました。
しかし、「体を揺すっての演奏はいかがなものか」ということも根強く指摘されています。
とくに、初めて我々のコンサートに来られた方の最初のご意見に多いように思われます。
聴くことの妨げになる、ということでしょう。
音を聴くだけでなく、見ても頂いているということです。
そう言えば、今では無くなりましたが「衣装」、そして「歩き方」「楽譜の持ち方」「出入りの仕方」など視覚的なことについての意見もありました。
視覚的な何か統一的なものがありそうです。
一糸乱れぬ、動かぬ姿勢。
「文化」に根ざしたものかもしれません、一考を要するものです。
〔「体の揺れ」は発声に悪いのではないかという意見も多いのですが、これは簡単に説明できるでしょう。オペラでは体を動かさないで歌うことのほうが稀です。座ってはもちろん、寝ての姿勢、走りながらの発声もあります。いかなる姿勢においての発声も視野にいれておかなければオペラ歌手は務まりません。要はどう体を使うかです〕

「動かないで」という指示を出すこともあります。それが音楽に相応しいとき、内容表現に必要であると判断したときがそうです。
しかし基本的にはリズムに即して「自然体」でという方針です。
お聴きいただいている方々に恐縮の思いも持ちながら「身体全体」での鑑賞を、との願いが強いからだと思います。(決して押しつけであってはならないとの戒めです。あくまでも自然で・・・・)
〔宗教曲においても「動かない」ことを望まない私です。慎重に言わなければならないのですが、『動きを伴うこと』と『真摯な祈り』とは相容れないものではないと思うからです。原始的には祈りは言葉と踊りが一体になっていたのではないかと思うのです。ただ、歴史的・文化的な視点が必要なことは言うまでもありません。何度も書いてしまいますが、用い方は恣意的、形式的であってはならない、このことが重要だと考えます)〕

演奏を楽しんでいただく、これが幸福な時間を共有する条件です。
演奏が「良いもの」である、これは自明の理。
そこに、期待し、望まれる聴衆が居る。
演奏の進行に併せて、両者がどんどん変化し音楽の神髄を共有していく。
そこに演奏者と聴衆の理想を見ます。

結局、演奏者として幸福な条件を考えるとき「好きになっていただく」、これに尽きるのではないか。
つまり「ファン」になっていただくことを目指さなければならないということです。
ファンが一万人集まったライブ、などと聞くことがあります。
そのコンサートで「体が揺れている」「発声が変ではないか」「動きが納得できない」などという意見は大きくは出てこないと思うのですがいかがでしょう。
こういったコンサートでは、演奏する者の一挙手一投足が全て「演奏」として聴衆に受け入れられているものと思われます。
ここでは、聴衆も演者もその空間を最大限に燃え尽きようとする方向性を持ち、また探ろうとする努力も見て取れます。
少し危険な要素もあるかと思うのですが、こういった熱く燃えたライブを私は羨ましいと思う気持ちも強いです。
音楽が持つ「熱狂」(しずかに熱くということもあるかもしれません)という要素がそこにあるからです。

しかし「対峙する」という言葉も好きです。
演奏者と聴衆とが「対峙する」。
「向き合うこと」。演奏者からの発信、そして聴いて下さる方からの発信、それらが軋めいてこそ「意味ある」ものになっていくのではないか。
聴衆が「何でもかんでも受けいれる」というのではなく、批判を込めて鑑賞する、そのことで更なる充実感を味わう。
「刺激」し合う、ということが芸術の在り方の一つではないか、そう思います。
「コンサート」、それは待ち望む聴衆が居て、それに応える演奏者が居る。その両者が相互の信頼に立って楽音一音一音で時の瞬間を刻んでいく、軋むことも含めて呼応し合う、刺激し合う、また享受し合う、これこそが「聴衆と幸福な時間を共有する条件」なのだ、そう私は思うのです。

第116回('07/12/11)「聴衆と幸福な時間を共有する条件とは」この項終わり。


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