第117回('08/07/03)

かけがえのない相棒「船阪義一」が亡くなりました

演奏家にとって、ステージの裏方さんからのサポートは必需です。
その日の出来不出来はそのことからも大いに影響を受けたりします。
演奏者自身による最上の努力は当然なのですが、それを導き出してくれるようなステージのスタッフに遭遇したときなど、自身が驚くほど良い結果を生み出したりするものです。

京都府立府民ホール「アルティ」での演奏会、それは京都市民の方々にわれわれの演奏を聴いていただきたい、そしてわれわれもその音響の良さを味わいたいとのことで始まったものでした。
今では私たちにとって「CD録音のための演奏会場」としても重要な位置にあるホールとなっています。
しかし、音響ばかりではなく実はもう一つ重要な要素も加わっていました。それはスタッフによるサポートの適切さです。
それが「お気に入り」として使わせていただいている最も大きな理由です。

使わせていただくようになってから数年経った頃でしょうか、リハーサル中「ある視線」を感じるようになりました。
訪れる度にその視線が大きく私の中で膨らむように感じられていくのですが、その視線がある時本番中(演奏している時)に私の心にある種の心地よい緊張感を生んでいることに気がつきます。
聴かれている、観られている、という感覚でしょうか。
それも身近から。

「船阪」を意識したのはその時からでした。

彼が「定年」を近くに迎えたとき、「頼みがある」と呼び止められました。
アルティでのある演奏企画に関わって欲しいとのこと、彼と話したのはそれが初めてです。
お酒が入ると饒舌になると知ったのは後のこと、その時は私との会話はそう多くはありません。
寡黙な感じさえします、しかし私にとってはそれで十分でした。
何故か、既に「意気投合」だと私には思えたからです。

会うのが楽しみになりました。
「痒いところに手が届く」そんなサポートでした。
普通なら億劫がったり、手持ちのもので処理をしようとしたりするものですが、彼は「してみよう、やってみましょう」との態度を示します。
新しいものを目指したい、納得して本番を迎えたいと思う私にとってこれほどのサポートはありません。
出来ないことは「出来ない」と言う。
しかし、一度は「してみよう」と近づいてくる。
私よりも四つ年長です。
プロとしての誇りを私は彼に感じます。

職場を離れたのをきっかけに今度は私から彼に話を持ちかけます。
「一緒に仕事がしたい」と。
私のスタッフは謝礼や契約金などの交渉をするのですが、彼は内実を察してか「気を遣ってもらわなくてもいい、私は当間さんと良い舞台が作りたいのだから」というばかり。

今も印象に深く残るのは昨年2007年10月27日いみずホールでの〜宮沢賢治の世界 その二〜「星めぐり」林 光の照明。

賢治の照明

上の写真はリハのもので、あまりこの写真では上手く伝わってはいないかもしれませんが、本番では素晴らしい世界を作ることになります。「賢治は青の色」という私のイメージを見事に現したものでした。
彼との「打ち合わせ」は最小限度でしょう。
練習会場に現れ、私と合唱団やオーケストラとのやり取りをじっと聴いています。
メモ書きが走っています。
私がイメージなど伝えようとするときは既に彼の頭の中にはほぼ出来上がっているかのような返答が返ってきます。
「バッハが好きだ」と言っていました。
「バッハが面白い」と言っていました。
「マンスリー・コンサート」のリハにも顔を出し、椅子をメンバーと共に運び、準備や後片付けを率先して動く彼。

気楽に様々な相談にものってくれたようです。
小道具作りのアドバイス。新しい「追分節考」の団扇台も彼のアドバイスの結果です。

名古屋での「追分節考」の小道具



「OCMステージテクニカルアドバイザー」として私と新しい舞台作りを始めたばかりの船阪義一です。

船坂氏

沢山の計画がありました。
彼が書いた多くのメモ書き、台本が残っています。
残念でなりません。
2008年6月25日、心臓動脈瘤(りゅう)破裂ため緊急入院。2008年6月29日、死去。
私の相棒「船阪義一」が亡くなりました。




今年、誕生日にそっとメッセージを送ってくれた彼。

「SCO」名古屋公演で

6月、私の誕生月。
その6月という月に大事な人を失う。
五十嵐玉美、船阪義一、私にとってかけがえのない「人」です。

第117回('08/07/03)「かけがえのない相棒「船阪義一」が亡くなりました」この項終わり。


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