第128回('10/03/15)

【転載】
第三回 名古屋公演(2010年3月14日(日)しらかわホール)
演奏にあたって

演奏にあたって

歴史は驚くほど、地球の裏でも表でも同じ要素に溢れているものです。
細かく見れば多少の誤差、数年や十数年の差はあっても同じように流れていると思われます。
地球という一つの環境ということからすれば当然と言えば当然なのですが、つい私たちは地球の裏側とは別物と思いがちです。

ヨーロッパ音楽の古い作品から入った私にとって、ヨーロッパの文化を知ることは必然でした。
日本文化との決定的な違いはヨーロッパ音楽を奏する者にとって障害になるのでは、との懸念も(今から思えば滑稽なのですが)持っていました。
しかし、ヨーロッパの歴史を分析するために考え出された「区分」、「先史・古代・中世・近世・近代・現代」をとってみても、ヨーロッパも日本も「人間の歩み」は『社会作り』から『一個の人間』への視点へと向かう同じ歩みをしているように思われます。
ただ、地理的な違いからくる自然環境(温度・湿度・高度・地形)によって様々な生活様式があり、その違いに因る多少の差違が「別物」との思いを持たせている、ということだと私は理解しています。
(文化という側面から見ればその違いは生きる実感として大きな問題ではありますが)

住居。食べるもの。着るもの。履き物。・・・・そして「神」の問題もしかり。
一神教や多神教と、それは大きな違いを生んでいくのですが、そういった社会制度としての強固な〔きまり〕を形成しながらもその一方で、「人間の個」としての意識もまた強くなっていっているとの流れです。

「人間」の「個」、その「個」らに共通して流れ、また結び付ける大きな力を持っているのが「音楽」です。
自然環境によって生じた文化の違い。しかし、「人」としてその底では深く結び合っている。そう信じる私にとっての音楽はその架け橋として大きな働きを成すものです。
上に掲げた社会構成を成す「人間」から、「人間の個の発見」へとの流れ、それは大いなる「人間賛歌」ではないか? その「賛歌」に心が躍ります。
1600年、ヨーロッパ音楽史では「バロック時代」の幕開け。
新しい科学と新しい信仰の形─宗教改革─を生んださまざまな文化的運動が吹き荒れる時代です。
日本では「江戸時代」の始まり、「近世」への突入。
閉鎖的な「鎖国」という制度をとったとはいえ、近代的な文明社会へ発展する時代へと移り変わったこともまた確かでした。そして高度な日本文化(歌舞伎・浄瑠璃等)を生み出した時代です。

今回のプログラム。これら両文化圏での相違と類似を感じて頂きながら、「人」として共通する「個の確立」、「情念(感情)の表現」「普遍の祈り」にスポットを当てたいとの意図で組みたてました。
楽しんで頂ければ幸いです。

芸術は「遊び」にこそある。と言った人がいました。「お勉強ごと」なんかでは無い、「遊び」にこそ真の姿がある、「真(まこと)」があるとの意味だと解します。
続けてその人が綴ります。「遊び」は「狂乱」だと。「狂う」程に演じて(奏して)こそ真なり、ということでしょうか。
芸術は遊びの中にある。・・・・・ふと気づきます。
どんなに文化が違っても、大きな価値観の相違があっても、「遊び」は共通なのだと。
子どもの社会は遊びに溢れています。大人も実は遊びが大好き。そして大人と子どもを結び付けるのも「遊び」ではないか。そこに断絶はありません。両者が真剣に取り組める領域がそこに存在します。
音楽が「遊び」の領域に入ればいいと思います。時代も国も、言語も超えて「遊び」で繋がる。
それこそが「遊び」の醍醐味。「人」の醍醐味。そして音楽の醍醐味というものです。
遊びに興ずるのは本当に楽しい。演じる人も観る人も。
シュッツ、バッハ、バルトーク、鈴木憲夫、そして千原英喜の世界で遊びたい!
遊びの中に本質がある。それぞれの真の姿(個性)がある。
それを具現化する舞台でありたいと強く願う次第です。


第128回('10/03/15)「【転載】 第三回 名古屋公演(2010年3月14日(日)しらかわホール) 演奏にあたって」この項終わり。


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