第136回('12/01/01)

「家庭的」と呼ばないで!

グループでの旅行で「家庭的な雰囲気ですね」とよく云われます。
合唱団で大勢で動いたときは「皆さんバラバラなのによく統制が行き届いていますね」とも云われます。
個性的集団、皆それぞれに違った行動を取っているのですが(人の言うことを聞かない風です)、それでいながらいざここぞと言うときには見事な連係プレイと統一性を取る、そのことを言ってくださっているようです。
よく見ると、それまで余り目立たなかった(笑)人物が中心となって号令をかけいるようにも見える。不思議な集団と見られてきたのだと思います。

小グループでの動きは正に「家庭的」かもしれません。穏やかな会話、親しげに冗談を交わし、それぞれが周りに気配りしながら助け合っている。良い家庭の模範みたいな風景が続きます。(時折、後方で真剣に話し合ったり、喧嘩のようなこともしますね。

よく私が言うことなのですが、いつ如何なる所でも「プロに徹しませんか?」と。
もちろん演奏者としてもそうなのですが、旅行などに出かけた折りの「客」となったときにも「プロに成りましょうよ」というわけです。
つまり「客のプロ」です。
店に入っても変に「いちゃもん」つけない。店の雰囲気を壊さない。店の人たちにやる気を起こして貰おう。他のお客さんも乗せてしまおう(笑)。そういうことですね。
「家庭的」に戻ります。
お父さん風の人物が一人、そしてその周りにはお母さん風(はいないと思われているかもしれません)、娘や息子がいっぱい。和やかに談笑しながら(時には歌うわけです)賑やかなこと。一体この人たちは何なのだ、ですね。
良いハーモニーを作る。良いアンサンブルをする。これに徹しようとするとこのような集団になります。
ただ「歌う」ということであれば思い思いの大きな声で、そこまで周りに気遣わずに、個性を発揮して大勢で歌えば良いのですが、それを「聴かせる」という立場になるとそれで良いのか?と考えるわけです。
良い演奏家は良い聴衆でもあるべき。これが私の云わんとするところですね。
歌うことだけで「事を済ます」のではなくあくまでも聴衆としての満足度も高める。「聴衆(客)」のプロに徹する時の心構えで演奏家としても立つ、そうありたいと思うのです。

それにしても云われている「家庭的」という言葉。
これは危険です。良い意味でも、良くない意味でも、この「的」という曖昧な付加語は気をつけて使わなくてはならないと私は自分自身にも強く課しています。この言葉を使うことで本質を見誤りそうで怖いのですね。
もし使うとしても、「家庭的」と言った後には話手、あるいは書き手の思いを述べないと正確には聞き手、読み手には伝わらないのではないかと思います。

私は私の仲間の「家庭的」な振る舞いを喜んでいます。自負したいと思っています。
その是非、質はいつでも「演奏」結果によって示されているわけですから。
そうは云ったものの「家庭的」な集団とは・・・・ウーン・・・いつの時代でも「良い家庭」を築くのは困難な事です。皆さん、この事の為にとてもご苦労されているのではないでしょうか。
私も、とてもガンバッテいます!

第136回('12/01/01)「「家庭的」と呼ばないで!」この項終わり。


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