第141回('12/6/19)

第17回東京定期公演を想う

2012年6月3日(日)2:30P.M 第一生命ホール
第17回東京定期公演〔弦の魅力・声の魅力〜希望を紡いで〜〕

前回の東京公演が2010年11月でしたから、約一年半ぶりの東京でのコンサートとなってしまいました。
男声合唱団「風童」や神戸公演などが加わってスケジュール調整が困難だったことがその要因です。
沢山の方々に見聞きして頂きいとの思いで大阪を離れて演奏するのですが、東京に限らず各地方での演奏意欲も増すばかり。
会場の雰囲気も行く先々で異なって、その臨場感は格別です。

ここ数年のコンサート傾向も変化してきたと思います。
なかなか一口では言えないのですが、聴衆の層が対極的に大きく分かれてきているのではないか。
欧米でも年齢層が高くなっているのは以前から指摘されていることですが、若い人たちも熱心に興味を示し始めている、という思いを持ちます。
相変わらず、30代、40代の層が厳しいと観るのですが、それはやはり仕事に忙しいからかもしれません。
忙しいからこそ「音楽を」とお薦めしたいのですが、ジャンルが多様化した今日では「クラシック」のようにじっくりと自身の「心」と対面、対峙するには時間が少ないように思われます。
判りやすく、感じやすく、身近なテーマによる音楽がやはり好まれるのも致し方のないことかもしれないですね。

その中にあって、音楽の歴史をたどりながら文化史の一環として取り組む。そして現代と未来への「音楽探り」を通して、音楽と人とを結ぶパフォーマンスでありたい。との気持ちが一層強まっていっている私がいます。
若い人たちとこの地道な道を一緒に歩みたい、それがコンサートを続けている理由です。

バッハの「フーガの技法」を取り上げました。音楽が「知」と結ばれている希有な名曲です。主題が繰り返され、他の主題と紡がれながら音世界を構築していく。
この人間の脳の作用を映すかのようなスタイルは、強く私を魅了しています。様式と感情とがこんなにも一体となっている音楽。一生追い求めて行きたいと思っている曲です。
チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」は「SCO」のアンサンブルを聴いていただければとの思いで選びました。
弦の音色、その統一感。そして各セクションが折り合わさっての切れの良いアンサンブル。空間を飛翔する音群。それらの志向を具現化した表現を是非とも聴いて頂きたいと願いました。

下の写真はそのリハーサルでのもの。
良い仕上がりを感じながら振っていたのを思い出します。本番ではそれ以上に情感が舞いました。演奏し終えた時の会場、空気が圧縮された後にその解放を求めるかのような緊張の漲る瞬間でした。久しい感覚でした。

名前

前半が「SCO」の弦楽合奏。もうこれでコンサートは終わったかのような高揚です。
そして後半が合唱団の演奏。
メンバー、前半での演奏に刺激を受けての出番となりました。
「方丈記」、何度取り上げても素晴らしいと感じる曲です。千原英喜の面目躍如といったところです。
合唱団もこれまで以上に細密な描写に取り組んでくれました。良い演奏だったと思っています。

私の作品は合唱団の多彩な一面を示したいとの思いで取り上げました。
作品を作ることができたのも、この合唱団があったからこそです。一つ一つのフレーズを優しさと愛しさを持って歌ってくれました。
楽譜には示されていないニュアンスも充分に表現できたと思っています。
お客様にも喜んで頂いたようで(意外にも若い人たちが興味をもってくれたようです)ホット胸を撫で下ろしました。

圧巻は「レモン哀歌」でした。
ピアノの難曲です。気合が入った亜子さん。始めから合唱団と共に悲哀の世界へと突入です。
合唱にとっては困難な早口でのパッセージ。しかし悲しみを表すには最良の方法かもしれません。
(多くのお客様が涙を流しながらお聴き頂いていた、と後で聞きました)
演奏を終えた瞬間の静寂。
お出で頂いていた作曲家西村朗氏に心からの感謝と称賛を!

一夜明け、まだ熱い思いが残る私でしたがメンバーと共に葛飾区柴又帝釈天へ。
疲れはピークに達していたかも知れませんが、ここでの一刻は昨日の演奏の余韻を振り返る良い遠出となりました。
写真はお土産屋に入ってカエルのオモチャを買っているところでしょうか。(今、我が家のお風呂場で出番を待っています。)

名前

以下に当日のプログラムに掲載した「演奏にあたって」を転載しておきます。

演奏にあたって
指揮者 当間修一

■バッハ Johann Sebastian Bach 1685〜1750
《フーガの技法》Die Kunst der Fuge BWV1080より
私の音楽の原点はバッハ。バッハに立ち帰ることで私の精神はバランスを保ちます。
未完の大曲《フーガの技法》。ひとつの単純なテーマからどれほどの多彩な対位法的可能性が引き出せるか?バッハの探求をたどります。
今回は原型主題による単純フーガから新しい主題を登場させた二重フーガ、そしてさらに新主題を加えての四重フーガまでの流れを追います。バッハは演奏楽器にチェンバロを想定したと思われますが、今回は弦楽合奏によって演奏します。
【転載】《2009.06.27 「ドイツ音楽の魅力」プログラムより》一部加筆

■P. I. チャイコフスキー/弦楽セレナーデ ハ長調 Op. 48
多くの人々によって愛されている「チャイコのゲンセレ」。
流麗であり抒情性豊かな作風はロマンの香り。
その繊細で愛情に満ちた表現は情熱と切なさを併せ持つもの。
有名な第一楽章や第二楽章(ワルツ)も魅惑的なのですが、第三楽章のElegie「哀歌」に私は強く惹かれます。ここに、作曲家自身の心の悲哀に大きな魅力を感じる私です。
魅惑的なメロディー、美しいその世界を追求することも大切ではあるのですが、この曲に溢れているノスタルジーと古き良きロシアとの別れを惜しむ心情を表したいと思いました。全曲にわたって構成(調性・動機)も纏まりよく書かれていて統一感のある楽曲となっています。形式の魅力とロマン的感情が巧く絡み合って絶妙です。
【転載】《2011.10.23 「古典の香り、ロマンの香り」プログラムより》一部削除と加筆

■千原英喜 混声合唱のための「方丈記」
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の冒頭で始まる『方丈記』。鎌倉時代初期に鴨長明によって書かれたこの作品は、日本三大随筆の一つといわれており、この世の無常や人の命のはかなさ、晩年の庵での閑寂な生活などが描かれています。
下鴨神社の神官の子として生まれた長明は、和歌や琵琶に優れた人物でしたが、神職に就く希望が果たせなかった失意のためか、50歳頃に出家し、晩年に居住した日野の庵でこの作品を書き上げたとされています。
第一曲と第二曲、第四曲は『方丈記』の序盤の部分を、そして第三曲は長明の和歌より三首を選んでテキストとしています。
また、第一曲と第四曲に出てくるアルトとテノールの16分音符のパッセージは、初演時チェロのオブリガート付であったものです。琵琶の演奏からひらめきを得た音形で、とうとうと流れて行く河の水の織り成すさまを表しています。
千原氏は、まえがきで「鴨 長明の方丈記にみられる、孤高の中で厳しく自己を照観し、無常の世に普遍性を問う姿勢は芸術家の精神そのものだろう。」と書いています。
ただ無常感に浸るだけでなく、怒りやユーモア、世俗への執着心などといった感情をもすべて含んだ、熱くダイナミックな音楽の世界が広がっています。
【転載】《2010.9.23 邦人合唱曲シリーズvol.16プログラムより》

■当間修一 「この愛しきものに」より(『みそはぎ』『あさがお』は未刊)
『空と海』〔混声合唱〕
問いとその呼応を二重合唱風に書きました。Soloは問い、そしてSoliによる合唱は離れた場所での演奏を想定しています。第二コーラスは天上からの声、そして海からの声として演奏されています。

『みそはぎ』〔女声合唱〕
川辺に人知れず咲いている「みそはぎ」。その花からこぼれた一滴の露。「みすゞ」の心が切ない。詩を読みながら「みすゞ」の心に寄り添いたいと思いました。ピアノ伴奏に心を映しました。
『あさがお』〔女声合唱〕
それぞれに背を向けて咲いている「あさがお」。
青のあさがお、白いあさがおはみすゞにとって何なのか?
しかし、訪れる蜂、光指すお日様はそれぞれに話しかけ、暖かさを与える。
みすゞは微笑む。・・・・あさがおは背を向けてしぼむ。
最後の二行の悲しさ。それは私にはとても悲痛な言葉として深く心に迫ってきます。
「それでおしまひ、はい、さやうなら。」
みすゞの病気は次第に悪化していく。虚無か?絶望か?

『象の鼻』〔混声合唱〕
空を眺めるみすゞ。山の上に浮かんでいる雲。
雲は象に見え、鼻のような雲がムクムクと伸びていく。
その先にあるのはちぎれた雲か、月なのか、それが象の失くした牙に見える。
とどきそうな雲の鼻、しかし日が暮れ始め、雲は牙にとどかず・・・・。牙はいっそう白く透くように浮き上がる。
みすゞの寂しさ、哀しさを読む。曲中、みすゞの故郷である長門市仙崎に伝わるわらべ唄「お月様いくつ」を挿入。

慶田城用紀 (編曲:当間修一)『さがり花』〔混声合唱〕
平和を語ることは易しい、しかしそれを実践することはなんと難しいことか。沖縄、石垣島で聴いたメロディーが無性に心に疼いた。
〈平和〉という言葉と日々対峙しているのは沖縄。時間が経ち、耐えがたい辛い想い出が世代交替のなかで薄れていく人の世のはかなさ。
美しく明け方に咲き、散る〈さがり花〉。その幻想的な姿に平和を祈る作者を重ね合わせながら編曲が進みました。
間奏の前にリズムを刻む男声は、エイサーの平太鼓。平和の祈りと鎮魂の叫びが響きわたります。

■西村朗「レモン哀歌」
西村氏の作品はエネルギーが渦巻く。ピアニストにとっても、そして合唱団にとっても。その渦巻きが高村光太郎の慟哭にふさわしい。ただただその熱き音、音符に哀しみが充たされて質量の度合いが増す。
氏が光太郎の詩をテキストにするのは初めてだと記しています。少し意外な気がするのですが、心を病んで先に旅立ってしまった愛妻、智恵子。その光太郎の孤独や悲哀に近づいて書いたというこの作品にとても強い興味を持ちました。
いつに変わらず、氏の作品の密度は濃い。光太郎の絶望、悲哀を表現できればと思います。
【転載】《2011.9.25 邦人合唱曲シリーズvol.17プログラムより》

第141回('12/6/19)「第17回東京定期公演を想う」この項終わり。


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