第143回('13/01/17)

「京都C・モンテヴェルディ合唱団」第49回定期演奏会の感想

定演写真

2013年1月14日、予報では雪。寒い一日であり、また交通の乱れが予想されての演奏会でした。しかし当日になってみれば雨は降っていましたが最悪の雪には見舞われず、思ったほどにも寒くならず、少し胸をなで下ろしました。
京都の冬は足下から冷え込んでいきます。金閣寺の直ぐ側、カトリック「衣笠教会」はその寒さも和らぐほどの人の温かさで賑わいました。満席での第49回定期演奏会「京都C・モンテヴェルディ合唱団」の演奏はその中で行われました。

私が今一番期待をかける合唱団でしょう。巧く乗ったときなど独自の世界を奏でてくれます。私がこの合唱団と関わりをもった経緯(いきさつ)を思いだす度にその責任を感じてしまうのですね。「中混」と呼ばれた団から引き継ぎ、私の好きなモンテヴェルディの名を冠して始めた合唱団でした。前団を創設された方との交替は団員の意志で行われたとはいえ、団の成長は私にとって自分に課した大きな約束でもありました。
今では、少年少女合唱団が母体だった「中混」のメンバーも一人だけとなってしまってはいますが、私が引き受けた「お気に入り」のサウンドなど、その伝統は引き継いでいるつもりです。
それ以後、演奏会の歴史を通じて徐々に大人の団へと脱皮できるよう方向性を示し、また実践をしてきました。波はあったものの、新しくメンバーとなった人たちと共に私に期待と喜びを与えてきた歴史であったことは間違いありません。そういう意味では約束された結果を生み出した活動団体と位置付けていいのではないかと思っています。

今回、定演当日の二日前から詰めた練習となりました。私には期するところがあってその時、ワンフレーズ毎に細かい音づくり、音楽作りをし、その都度変わる彼らの演奏に思わず拍手するほどの充実を感じ、当日の成功は間違いなしとの確信を皆とも持ち得た練習の第一日目でした。
翌日、練習の二日目。一転してしまいます。昨日の演奏が嘘のように消え、ハーモニーも決まらず、音楽の推進力も落ちがち、音楽の印象が「前進」ではなく「停滞」、あるいは「心配・不安・懐疑の連鎖」と感じるほどの後退練習になったのですね。しかしメンバーはそれほどには感じていない様子。次へとステップを続けたい私の歩みと一緒にはならない私の苛立ち。早速(はやばや)に練習を終えて二日目を終了。(皆と食事をするも前日のように心は熱くならずホテルへと帰ります)
でも、そうであっても私には確信がありました。当日は復活すると!

当日一番のお気に入りの曲、千原英喜「十字架上のキリストの最後の言葉」を演奏することもあって、作曲者の千原さんもご来場。各地から、遠方のお客様も来て頂いての満席の会場は演奏に期待する温かく、熱心な眼差しを感じるほどの熱気を帯びて始まりました。
モンテヴェルディ「マドリガル」、「イギリス音楽作品」、武満 徹「うた」は、予想通りの演奏。ゲネの時からテンション落ちることもなく演奏は続けられていきました。とくに、プログラム最後、「十字架上のキリストの最後の言葉」は熱演です。今の彼らの最上の演奏になったのではないかと思います。(特別参加の「大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団」準団員である白井卓也くんのソロも健闘しました)
お客様も本当に喜んで頂いている様子。演奏会は成功のうちに終わりました。

打ち上げでのスピーチ。各地から応援に来てくれた各団のメンバーからは好評の言葉。それらが幾つか続いたところで、二つの「辛口」評が出たのですね。それが愛情溢れる「辛口」と私には映ります。心底では「誰か言ってくれないかな」と思っていたことに気付く私。やはり出るのですね。
「辛口」をまとめます。つまり、メンバー一人一人の自分を超える歌を聴きたかった。個人の世界だけではなく皆で瞬間の積み重ねで作りあげる歌を聴きたかった。守りではなく、更なる音楽を目指そうとする演奏が聴きたかった。ドキドキ、ハラハラもありながら、〔ときめき〕を感じるような演奏を聴きたかった!それができる「京都C・モンテヴェルディ合唱団」だから!!ということだったと思います。

私の振りながらの感想です。男声の響きが以前よりも安定しましたね。
要因はテナーの成長でしょう。ただ、本番に向かって音楽も声もいわゆる〔小さく〕なっていったのが残念。時折、〔我が道を行く〕、で新たな音楽信号を出している私に気付かないで行き過ぎるのには落胆。
アルトは本番前で一つとなって揃いましたね。低音も響き、中音域での表現も良くなってきました。
ソプラノはピッチも揃い、高音の伸びも柔軟性に富んだ声になってきています。中音域での芯を伴わない響きに課題を残してはいますが、ソプラノとしての役目はよく果たせていたと思っています。ただ内容にも迫って言葉を生かそうとの思いも見えるのですが、今一歩私の琴線に触れず、すれ違いの思いは残りました。
バスは良い仕事をしたと思っています。時折音楽が小さくなる傾向もあるのですが、タクトの対応にはいち早く反応を示します。今回、大事なところや私の音楽心をかろうじて支えてくれたのはバスだったかもしれません。やはり、演奏中で最も大切なのは真なる「コミュニケーション」ということに行き着きます。

第一日目の練習での演奏は本当に素晴らしかった。どこにもない演奏で声も音楽も一体となって輝きを放っていました。それがどうして二日目の演奏となるのか。
本番は少し復活したとはいえ、第一日目の演奏の域には至りません。あの演奏は幻となったのか?
【本番が一番表現の小さいところでまとまってしまう】【大きく広がっていかない、巣立っていかない】
本番の演奏の楽しみを知っている者にとってはこのことが何よりも気になってしまうのでしょう。
単なる練習不足でしょうか。音楽基礎、テクニックの不足でしょうか。それとも集中力の問題なのでしょうか。

私には[他に対しての気付き]、そして[自分自身の適切な決断力〕〔崩れた時に是正させようとするメンバー間での実行力維持(信頼感が不可欠です)]の欠如ではないかと思っています。
困難なことは確か、しかし、音楽の喜び、合唱の喜びはまさにこの個人と人と人とのアンサンブルにあるのではないかと思っている私です。
失われてしまったあの練習での演奏は私の脳裏にはっきりと刻まれています。あの演奏を聴衆を前にして歌って欲しい、そして是非とも多くの方々に聴いて頂きたいと強く、強く思うのですね。
次回の演奏会に向けて要点は定まりました。それに向けてじっくりと、着実な歩みを続けて行きたいと思っています。それが、脈々と続けてこられた先人たち(作曲家、演奏者、文化を支えてきた沢山の人たち)に対する感謝、またその連なりである喜び、また演奏者としての誇り、責任表明になるのではないかと思うからです。

音楽監督・常任指揮者 当間修一

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