第145回('14/12/22)

2014/12/21クリスマス・コンサートの所見

昨夜(2014/12/21)、大阪のいずみホールにおいて「シンフォニア・コレギウムOSAKA」第64回定期演奏会「クリスマス・コンサート」を終えました。
3時間に及ぶプログラム、その中心であるバッハのクリスマス・オラトリオ(第一部から第三部まで)とクリスマスに因んだ曲を聴いて頂きました。
その後、ご来場頂いたお客様のアンケートの中に幾つかのご意見があり、それにお応えすることにします。
しかし、そのご意見は今回が初めてでもなく、これまでにも頂いていましたし、またお応えもしていたように思いますがこれを機に改めて所見を述べさせていただきます。

ご意見やご質問は以下の二つです。
1)オラトリオの二部と三部の間に他の曲を挟むことについて
2)ソリストは外部から歌手をゲストに迎えないのか
ということです。

1)に関してはそもそもこのオラトリオはコンサートにおいて続けて演奏されたものではないということ。第一部は12月25日、第二部は翌日の26日、第三部は翌々日の27日用に作曲されています。第四部以降は翌年の1日、2日、そして6日の「顕現節」に演奏されました。このように初演は1734年のクリスマスから六つに分けて演奏されています。
確かに続けて演奏する方が鑑賞ということに関しては整理がつきやすいという利点がありますが、この曲、受難曲のように連続でのドラマ性も薄く、私は続けて演奏することにあまりこだわりはありません。
それぞれが独立性の強い作品で一部ごとに完結しています。
それらの理由から、これまでの演奏の歴史の中でも今回のようなスタイルでプログラムを組むこともしばしばありました。
今回は聖母賛歌と主を待ち望む祈りの曲を第三部への導入として挟みました。お聴き頂いて違和感を持たれた方もいらっしゃるかもしれませんが、流れとしてはこのようなプログラムも有りかなと思っています。

2)のご質問に関して
実はこのご意見は根強くこれまでにもありました。ソリストは外部から呼ばないのかということですね。
この問題、特に大事だとの認識です。今までにゲストを迎えることがなかったわけではありません。素敵な歌と共演できたことにとても感謝しております。
しかし結論的に言えば、全体的には響きや表現が二分される結果となっています。
私は統一された、表現様式で演奏したいと常に願っています。その事で作品の本質が現れるのを望みます。その方向性で合唱が生まれ、オーケストラが結成されました。
バッハの作品は合唱、オーケストラ、ソリストの統一性の中にこそ作品の本質があるように思います。
しかし、ご指摘されてきましたように、歌手としてのソリストはよりソリストとしての魅力、実力、語学素養、音楽的教養、それに見合った表現力を伴わなければなりません。これは当然のことだと思います。
この問題は私が感動し、共演したいと望む歌手の方と巡り会えれば、その実現はかならずや行われると思うのですが、これからも、最高、最良の演奏のために〈より良い出会い〉と共に団員の〈育成〉に向けての努力を続けて行く所存です。

演奏は演奏だけで成り立っているのではない、と私は思っています。
演奏は人が作りださなくてはなりません。人の息吹が演奏とならなくてはなりません。
人が人と繋がらなくては演奏という共演、協演とは成り得ないと思うのです。
演奏者はそのコンサート会場の全ての方(人)と繋がらなくてはなりません。これからも更なる高みへと向かいたいと思います。

昨日の演奏で直に聴いた感想は、多くの「感動」という言葉でした。指揮する私が何度も込み上げてくる涙を抑えるフレーズや表現があったのですが、聴衆の方々とその瞬間を共有できたのであればこれに勝る喜びはありません。
これからもよりよい演奏となるために様々な試みをする覚悟です。

第145回('14/12/22)「2014/12/21クリスマス・コンサートの所見」この項終わり。


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