第146回('16/05/27)

一人一人の個性と向き合う「演奏」

明日、「名古屋ビクトリア合唱団」の第13回の定期演奏があるのですが、それについて頭の中を巡っている事柄があります。
これは別に名古屋だけでなく、どの団であっても「演奏会前」にはいつも巡ることであるのですが。
「何故、私は演奏するのだろうか?」「何を目指して、何を目的としているのだろうか?」、そして「音楽ってなんだろう?」「合唱ってなんだろう?」と。
最後の、合唱についての問い掛けが特別です。
オーケストラを指揮するときとは明らかにスタンスが異なります。それは合唱には特有の問題があるからです。
弦や管楽器の演奏も演奏者の個性に依るところ大ですが、それ以上に声は「個性」に影響を受けることが大きく、それが良くも悪くも合唱が持つ問題となります。

一人で歌っている時は別にどのように歌っても自由。
少々音程が悪くても、リズムが変でも、誰に遠慮することなく歌を楽しむことができます。
そしてこれこそが音楽が持つ自然で豊かな人間的な行為だと私は思っているのですが。
しかし、人が集まって声を揃えて歌おうとすると一般社会と同じように規範が必要となります。
様々な取り決めを作らなければならなくなります。(揃えなくて、最後までバラバラで自由に歌い続けるという曲もありますが、ここではそれらの様式を省いての事として進めます)
規範の詳細は合唱の規模、人数にも多少は関係してきますが、基本的な事柄としては「揃え」です。
そしてそれは〈ハーモニー〉〈リズム〉〈言葉〉から始まらなくてはなりません。
西洋音楽では〈ハーモニー〉は音程やピッチ(音高)を精密にしなければいけませんし、〈リズム〉は一種の「乗り」を作って合わせる必要があり、〈言葉〉では子音の発音に留意しながら且つ母音の美しい響きをもって明瞭な発音を目指さなくてはなりません。
しかしながら、厄介なことに人それぞれに「声」は異なります。
体格や筋肉の性質によって、またそれぞれの性格や嗜好によっても違ってきます。そしてそれらが混在しているのが「合唱」です。
声は楽器以上に変幻自在の音源。どのようにそれらを混ぜるか、配合するか、それが第1の関門です。
「協調」「協和」というけれど、言うは易く行うは難し、これほど難しいことはありません。
魅力的な個性が多ければ多いほどこの問題はある意味矛盾するものとして横たわっています。

私が常に言っていることがあるのですが、それは「我を超えて音楽の至高を目指す」。
我を超える? 超えて何処へ? 合唱音楽の至高?
それは、ハーモニーの至高。リズムや言葉の適切で説得性のある表現。
それらを、演奏者の一人一人が〈我を超えて〉、自己を超えての錬磨で取得する。
それこそが「協調」「協和」へと向かわせる道なのだと。そしてその困難な道を歩ませる情熱の元こそが音楽の楽しさでなければならないのだと。

音楽する目的って何なんでしょう。
それは結局、人と人とを結ぶコミュニケーションだと私は思うのですね。歌で発する、それを聴衆が受け取って受け入れ、互いの心が近づく。
言葉だけでは伝えられない、言葉では言い尽くせない思いであるからこそ音楽となる。
言葉になる前の感情であって、言葉を超える思いだからこそ音楽となって発せられる。
人と結び合いたい、独り言のように歌っても、拒絶するように叫んで歌っていても、自分の心から発する歌で人に寄り添いたい、それが演奏することなんだと納得するのです。
演奏会前に考えます。
明日の演奏会、それは合唱団にとっても、そして聴いてくださる方々にとっても、楽しく、また厳しく、人を求めての行いなのだと。
それが渾身の棒を振りたいと思う私の本心なのですね。

第146回('16/05/27)「一人一人の個性と向き合う「演奏」」この項終わり。


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