第96回('04/7/10)

「希望」を持つこと、「本気」になること

人が苦境に立った時、あるいは深く思い悩む状態にある時、それを乗り越えられるかどうかは「希望」が有るか無いかにかかっています。
<最後の砦>は「希望」、それが私の確信です。

「希望」といっても中身はなかなか解らないものです。
<可能性を見いだす>ことなのでしょうか。
<目標>が見える、道が見える、ということなのでしょうか。

私は思うのですね。
現実的なものの延長上にある希望は「希望」として不確かな、危うげなものでしかないと。
お金持ちになりたいとか、恋人が欲しいとか、幸せな家庭を築きたいとか・・・。

「希望」というものは別のところにあるのではないかと私は思います。
人は身近な現実を望むことに目を向けがちです。
しかし、その現実を生み出すためには実は「自己の確立」、自分自身を徹底的に識(し)ることの上に立つ必要があるのではないか、そう思うのです。

人は何を、何故望み、どのようにして手に入れようとするのか?
望みの根底が、手に入れようとする手法が、しっかりと自覚されていなければ砂上の楼閣になる、と私は思うのですね。

「希望」は人それぞれです。
人それぞれの「希望」が有ります。
しかし、願い望むこと、将来を期待すること、生きる喜びを持つこと、そういったことが私事だけではなく精一杯生きる人たちとも<共有>できる、そんな「希望」になればと切望します。

<共有>できる「希望」。
それは何ごとも「本気」になって事に当たることから見えて来る、そう私は思い続けてきました。
一時、<広く浅く>という言葉が日本を駆けめぐったことがありました。
知識人、文化人たちの多くがこの言葉を支持していたと記憶しています。
違和感を持ちながら、周りがどんどん同調していく姿を見てきました。
一見良さそうに思えるのでしょうが、<広く浅く>では物の成り立ち、創る喜び、通常では知ることのない<事の本質・真髄>など体感することができません。
理想を言えば<広く深く>なのでしょうが、それは普通人にとっては無理。
私は、<一つを深く、そして他は広く深みを期して>を志します。
一つを深く追求する。そこから全てに通じる本質が見えてくる、そしてその本質で広く他を見よう、そういうことです。
繰り返すのですが、要は<本気>になって何ごとにも臨む。そこにこそ真の喜びとなる「希望」が見え始める。そう信じるのです。

音楽を通じて「希望」を表現し、伝えたいと願う活動です。
メンバーたちとの「希望」探し、それが活動の核心です。
メンバーたちの「希望」が演奏上に反映される、それが本物の演奏だと信じています。
メンバーが「本気」になって打ち込める活動。
「希望」を<共有>できる活動。
すべては「本気」になれるかどうかにかかっているのです。

第96回('04/7/10)「「希望」を持つこと、「本気」になること」この項終わり。


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