第8回

私が目指す演奏とは

批評文の批評をしましょう、ということにしました。(「マイヌング」第4回、第5回、第6回)
雑誌や新聞に目を通しているうちに色々考えさせられることが多いです。
このインターネットのWWWの世界でも、それぞれの方が意見の交換をしたり投稿したりして感想や批評をしているのを拝見します。
読んでるうちに心が重く感ぜられてくるのですね。
何故だろう?と考えます。
それは「いかにも私は知っていますよ」という知識偏重型か、「私が感じることが一番」だという自己中心型かの二つのどちらかなのですね。
これだとまだ、プログラムを書いて並べるだけの報告書のようなものの方がずっとましに思えてきます。
クラシックは有る程度知識を必要とするのは確かなことです。教養が高いことがクラシック鑑賞にとっての深みにつながることも確かです。
若いときの感性は中年になってからの感性とは違いますね。歴史を通じて音楽の最初の近ずく(感動する)とっかかりはリズムにあります。ロックやポップス、などはまさにリズムの醍醐味です。若い人達が惹かれるのは当然のこと。音楽の歴史や、教養など必要ありません。「感じる」から良いのであり、「現在そのもの」だからいいのです。
クラシックは(特に日本ではと言いましょう)頭で理解するものだと思っている人が殆どといっていいでしょう。愛好家も専門家も。「私は体でも感じている」と言う人でも、よく考えれば脳に蓄積された「教養」という命令にしたがって体が反応しているにすぎません。
理屈など必要ありません。先ず体が反応することが大切なのです。
教養の高い人ほど、知識の豊富な人ほどその知識に操られ、危険な教養主義、盲目的な保守主義へと傾いてしまいがちです。
音楽は人間の歴史と共に歩んでいます。音楽だけが後から付いてくるものではありません。

「クラシックに現代性を見出す」これが私の姿勢です。
何も難しくはありません。現代に生きる「私」が感じる演奏をしたいわけです。
私を「私」と認識したい。それには先人達に学び、歴史を知り、伝統を知り、人間を知って、今を表現するしかない。歴史に学び現代に生かす。これが「クラシックに現代性を見出す演奏」というわけです。

「もの」を評するとき印象だけで論じては危険です。
部分的に突出しているものを取り出して、全体すべてがそうだと決めつけるのは浅はかです。
各部分を検証し、その是非を問う姿勢でなければ全体は見えて来ないのです。

私の演奏は一つの基調として「私で有り続ける」でしょう。
しかし「クラシックに現代性を見出す」姿勢によって大きく貫かれているとはいえ、個々の部分では様々な私の顔が歴史を通じての表現として違いを見せるはずです。
私の課題はその各部分に於ける検証と実践です。そして体験を通した感情として表現を深めていくことです。

最近、新聞等の音楽評が<自己感覚中心><教養主義><大雑把>なもののように感じられてしかたありません。
個々の部分の検証、しっかりした解釈を示した上で評してほしいものだと思います。
またここに宣言しなければなりません。
これからも「評論」の評論を続けていくことにします、と。