第34回('98/5/1)

「再度・演出家 蜷川幸雄のこと」

NHKテレビ「人間大学」に出演の演出家 蜷川幸雄氏を再度取り上げます。
第四回までの印象ですが、やはりなかなか見ていて面白いです。
前回にも書きましたが、芝居の舞台づくり、随分音楽上とダブりますね。
幾つか気がついたところを書きます。

何故、1998年に上演する作品が「ロメオとジュリエット」なのか?
日本の現代におけるリアリティは
●今の時代、愛の価値観が薄まっている。
というところに見出した。
さらに、再演をすることの中に
●自分自身の「老い」「権威への挑戦」
というハードルを課そうと思った。

シェイクスピア論
●権威を持ちすぎたシェイクスピアの再考
美しい言葉や人生の英知を示す言葉もあるけれど、それだけではなく、もっと猥雑なものである。極端に言えば、日本でなら旅回りの演劇から新劇までの幅を持つ脚本家なのだ。
日本での上演では、
●移植という問題性から、引きずり降ろしてからもう一度持ち上げるという面倒さを持ち合わせいる。
そのプロセスを経ることによって、結果的には
●移植=直輸入から免れたオリジナリティが生まれる。

俳優について
テレビ的な表現になれている俳優が、舞台では
●自分でズームインとかズームバックをして、観客の目線で事を考えなければならない。
●俳優は大衆の欲望の象徴的存在、あるいは大衆の欲望を集約したものである。
●キャスティングによってある種の権威崩しを試みる。
●熱心さという点では、同じ年齢の若い俳優だったらアイドルとかスターと呼ばれている人の方がはるかに熱心だ。これは自分を表現しようという欲望も、やりたいことを実現しようという意欲も、普通の若者よりはるかに大きいからなのだ。

演出の現場では
●俳優たちの「手抜き」に対する怒り。
沢山の役者達がいると、必ず本気でやらないで遊ぶ役者が出てくる。そうすれば舞台全体がウソに見えてきてしまう。
●演出家の役割の何割かは、何が許されて何がダメだという空気を形成していくことなのです。
稽古場での空気は人間の緊張感によって決まる。
●「状況」を提示し、アジテーションすること
●フェアが大切。
気分でダメを出したり、好き嫌いでダメだしをしない
そのためには、人間として
●自分をさらけ出す。

ざっと以上のような内容です。
音楽上で言えば、
作品を取り上げる現代としてのリアリティは?という問題ですし、
<シェイクスピア論>は作曲家論、<俳優について>は演奏者、<演出の現場>は練習場でのことですね。
どれをとってもダブってくることばかりです。

番組はまだ始まったばかりです。
この先も楽しみに見ることにしましょう。

ダブるところは多々あると書きました。
しかし、一つだけ決定的に異なっていることがあります。
それは演出家と指揮者。
演出家はリハーサルまでが仕事。
指揮者は、リハーサルのあと、本番が仕事。
指揮者自身も実は観客の目にさらすことになっているんですね。
音を出さない演奏家。それが指揮者でしょうか。
演技をしない演出家が舞台に出て、舞台上で指示することはないですね。

第34回「再度・演出家 蜷川幸雄のこと」この項終わり。