第46回('99/1/28)

CD文化とカラオケ文化

仕事柄、程々の(とはいえ、すでに収納スペースがなくなりつつありますが)CDやLPが我が家にあります。
でも、世の中にはレコードやCDを私などからみれば気が遠くなってしまう程の枚数をお持ちの方がいらっしゃるんですね。
そして、それを全部お聴きになるわけです。ただただ頭が下がってしまいます。

私も勉強し始めた頃は、好きな演奏家のレコードをそれこそ盤がすり減ってしまうほどに聴いたものでした。
またその頃、ようやくテープレコーダーなるものが世の中に出始めた頃でもありましたから、待ち遠しかったラジオの「クラシック番組」から好きな曲を録音し、これもテープがよれよれになるまで聴きました。

しかし、私は今になってもレコードやCDの「愛好家」「愛聴家」と自認できるには至らないでいます。
これは私が、好きな演奏家はいても忘我的ファンにはなれなかったことや、再生装置にもあまりこだわることのない性格によっているからかもしれません。
私にとっての関心は、それを書いた作曲家、そして作品とその背景にある文化にありました。興味はいつも「人間」なんですね。

こういう聴き方になったのは、私の性格と演奏家という立場からでしょうか?
聴いて楽しむより演奏することに時間が取られてしまったからでしょうか。
しかし演奏することで解ったことがあります。それは、レコードやCDを聴くことと<生>の演奏を聴くこととは天と地ほどの違いがあるということなのです。

その楽しみ方、目的が違うのです。

前置きが長すぎますね。
「CD文化」「カラオケ文化」の話です。
<生>演奏には同じものは一つとしてないということをお話したかったのです。
それに比べ、CDやカラオケから出てくる演奏はいつも同じということを指摘したいのですね。
そして、その「同じもの」ということに<少し気を付けたい>と思うのです。
つまり「型取り」に陥りやすいということなんです。
「型取り」とは<形を写し取る>、<まねる>ということですね。そしてそれは「方取る」、すなわちその方にばかり気を取られるてしまうということに繋がるのです。
一つの「型」にハマッテしまう恐れがあるわけです。

「歌い方」「雰囲気」「音響」など、ある「型」に似せることが目標になってしまうのですね。

<生>の演奏、それは「型にはめる」といった対極にあります。それはまさに創る過程を追っていくという楽しみであり、醍醐味なのです。
「型にはめる」のではなく、その過程で起きる「揺れ動き」「融通性」というものの中に楽しみがあるのですね。
例えばカラオケでは、歌い手はテープに合わせて歌わなければなりません。
テンポや音の高さを伴奏に合わさなければならないんですね。
全体の音の高さは調整できるようにはなりましたが、しかし、<生>の、合わせる面白さはそんな比ではありません。
人によって異なる節回し、ブレスの時間、フレーズのちょっとした間でも<生>だと合わせられるんですね。
これは実に面白く、かつ気持ちがいいんですよ。(効率は悪いかもしれませんが)
カラオケのもともとの発端は、LPやCD録音のプロセスから来ているのではないかと私は思っています。
つまり、オーケストラ(バンドなどの伴奏群)と独奏(唱)との経費のかからない合理的(効率の良さ)な録音方法として採用されていたものを応用したのだと思うのです。
演奏ミスのない、バランスも後で調整でき、スケジュールの調整もしやすいといった便利性を、発達した録音技術、録音機器によって可能となったことで考え出されたものです。
そうして出来上がったCDやカラオケなどは徹底して人工的に、好みや、理想とする響きを作り出すことに成功しました。
その作り出された音や演奏を何度も聴くことになります。同じものを、です。
そのことによって「録音された演奏」が演奏の基準になってしまう恐れが出てきます、また演奏者もそれを基準として「音響」を目指すといったことにもなりかねないのです。

しかし、<生>による実際の響きは違うことが普通です。コンサートホールとはいえ、聴く位置によって、音響や楽器や歌のバランスが違って来るんですね。温度・湿度によってもかわりますし、それこそ体調によっても響きは変わって聞こえます。
つまり、同じものは一つとしてないのですね。
知らず知らずのうちに「型にはまって」聴いていた耳が、それらの違った<響き>をどうとらえ、そして感じるか、それが問題になるわけです。

<生>の演奏の魅力は、その時行われていることそのものにあると思うのです。
そこで鳴り響いている<響き>を、繰り返し聴いているものを基準として比べるのではなく、それそのものを聴き取りながら感じたり考えたりすることにあるのですね。
聴き慣れたものとは違った「響き」や「演奏」の違いを新しい位置づけとして聴く、これが<生>の魅力なのです。
自分が持っているものとの<違い>を楽しむ、それが出来れば楽しみはより広く、より深くなるのではないかと思うのですが。

「型にはまる」楽しみもあります。
また「型にはまらない」楽しみもあるのですね。
LPやCDを聴く楽しみと<生>の演奏の楽しみとは違う。
その違うものを楽しみたい、それが私の主張です。

第46回「CD文化とカラオケ文化」この項終わり。