五島キリシタン史


1566年、五島にもキリスト教の伝道が開始され、3〜40年の間にかなり広まったが、秀吉のバテレン追放令後、衰退。江戸幕府の禁教令の頃には五島教会は崩壊する。
その五島をキリシタンの島として復活させたのは、五島から大村藩に向けての移民の申し入れ(五島に開拓民を送ってくれ、ということ)であった。
大村藩は昔からキリシタンが多く、その摘発は厳しく弾圧は過酷であった。また大村藩外海地方は、狭く貧しい土地で、人口抑制政策(要するに強制的な間引き)も行われていた。
そこで外海地方の潜伏キリシタン達は、比較的キリシタン摘発も緩いと言われる、新天地五島への移住を希望するものが相次いだ。
外海地方にこんな俗謡が残っている
「五島へ五島へと皆行きたがる。五島やさしや、土地までも」
1797〜99年の間に約3000人が移住し、そのほとんどがキリシタンであったと見られている。

しかし実際五島に渡ってみると、確かにキリシタンについては寛容であったかも知れないが、生活の苦しさはなんら変わるものではなく、むしろ苦しいものであったのかも知れない。
農業のしやすい平野部や、漁業のしやすい入江には、地元の住民(地下者(じげもん)という)が住み着き、移住してきた者達(居着きという)は原野、山間部などの荒地を切り拓き生活していた。拓いた土地には幕府の検地が行われ、年貢を取られていった。財政が良くならなければ、移民の意味が無いので、税徴収は過酷であったようである。
また原住民である地下者(決してこの人達も裕福ではなかった)にも蔑まれ、差別され続けたのである。
唯一キリシタン信仰だけが彼らの救いであったのではなかろうか。

そして五島キリシタン達に転機が訪れる。大政奉還による明治政府の樹立、そして政府の神道国教化政策による迫害の嵐である。
1873年の切支丹禁令高札の撤廃まで、言語を絶する迫害・拷問の数々が吹き荒れた。
キリシタンの貧農たちは、再び安住の地を求め平戸などに逃亡した者も多かった。平戸にはこのような俗謡が残されている。
「五島は極楽、行て見りゃ地獄。二度と行くまい五島が島」
切支丹禁令高札の撤廃後、五島キリシタン達は、半数がカトリックに復帰、半数はその信仰を維持し続けたという。