生月キリシタン史


生月は長崎県の西南部の島で、平戸島に隣接している。古くは和冦の活躍の場となり、捕鯨の基地としても栄えた。
キリシタンの集落は大別して4つに分けられる。
壱部、山田、元触、堺目の4つである。
この4つは大体似かよった信仰形態だが、細部に違いが見られる。

平戸は、長崎開港までは外国船来航が最も盛んであった。オランダ商館も最初は長崎ではなく平戸にあった。外国船来航が盛んだったということは、キリスト教布教も盛んであったということである。シャヴィエルも幾度か平戸を通っている。
生月も平戸に隣接していて、キリスト教布教が盛んであった。
1588年にガスパル・ヴィレラ神父によって布教が始まる。この当時の領主は、すでに洗礼を受けていたアントニオ籠手田安経とジョアン一部勘解由の兄弟であり、それぞれ生月島の南部と北部を支配していた。彼らは平戸領主松浦氏の支流であった。籠手田氏は実際には平戸に住み、奉行の西家が管理していた。西家もまたキリシタンとなった。

黒瀬の辻と呼ばれる所には巨大な十字架が立ち、山田には600人ほど収容出来る教会があった。それでも足りず、壱部浦あたりにもう一つ教会が建てられた。他にも小聖堂がいくつも建てられ、常駐する司祭は居なかったが、信仰は盛んで、初期布教の時点(1561年頃)ですでに島民2500の内800がキリシタンであったという。

1582年、籠手田安経が急死。その子安一もジェロニモの洗礼名を持つキリシタンであったので、とりあえずはキリシタンは保護された。しかし1587年の秀吉の伴天連追放令の頃から暗雲が立ちこめ始めた。
平戸領主の松浦氏は元来キリシタン嫌いで、貿易のため仕方なくキリシタンを保護したこともあったけれど、度々弾圧を行ってきた。伴天連追放令で公然と弾圧を開始、1599年領主松浦隆信が死に、息子の鎮信が跡を継いだとき決定的となる。彼は支配地の家臣、全てに棄教を命令、生月の者達にもその手は伸びる。
その時の生月領主、ジェロニモ籠手田とパルタザル一部は、信仰を守るため家族と家臣600人を連れて長崎へ逃亡。彼らの所領は没収され、松浦氏の治める所となる。
奉行で、キリシタンのリーダーだった西家のガスパル西内記は生月に留まったが、奉行職は剥奪された。
ガスパル西は1609年に妻ウルスラ、息子ジョアン又一と共に殉教。ガスパル様として今も黒瀬の辻に祀られている。

そしてこの生月にも、禁教による迫害の嵐が襲ってくる。島の各地に由来もわからないような殉教地が数多く存在している。さんじゅあん様の中江の島、だんじく様、千人塚、アントー様などがあり、いづれも潜伏キリシタンの聖地となっていった。
生月でも宗門改め制度は実施され、たびたび殉教者を出しているが、この島は捕鯨の基地として松浦藩の財政を支えていたので、徹底した取り締まりは行われなかった。おかげで、多くの潜伏キリシタンが、禁教期を乗り切ることが出来たのである。

1865年、大浦天主堂でのキリシタン復活以来、この島でもカトリック復帰を促すため伝道が行われたが、迫害を恐れた島民は立ち返ろうとしなかった。
1879年(明治十二年)にようやく22名が転宗願いを出した。この時神官や僧侶から圧力があり、カトリックに戻ったものを村八分にするよう求められた。飲料水差し止め、結婚禁止、船の乗り合い禁止など基本的な生活上の様々な点に規制が加えられた。

結局生月の総戸数2000の内、カトリックになったのは40〜50戸であった。
明治初期には島のほとんどが潜伏キリシタンであったと見られ、カトリックに対し、自分たちが本家であるという意識を強く持っていた。
戦前まで、カトリックに対する差別意識が強かったが、今では友好的に共存している。