キリシタン史 秀吉の伴天連追放令


1587年7月24日(陰暦天正十五年六月十九日)、時の関白・豊臣秀吉より伴天連追放令は出された。布教は拡大する一方であったキリシタン教界にとって、それはまさに突然の出来事であった。

この2日前の陰暦六月十七日、日本準管区長コエリョを訪ねた高山右近は、自分の言いしれぬ不安を口に出していた。
先の秀吉による九州知行割りで、キリシタン大名が九州に集中する事となった。コエリョは九州のキリシタン教界がさらに拡大する、と楽観的であったが、右近は何か急変か迫害の予感を感じていた。

翌六月十八日、このような一文から始まる朱印状が出される。
「伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事」
キリシタンになるかどうかは、その者の心次第である、と言った意味である。
この朱印状の大体の内容は、キリシタンの神社仏閣への破壊活動や、巡回布教を取り締まる、と言ったところであった。
ところが更に翌六月十九日に出された伴天連追放令は、二十日以内の外国人宣教師、日本人修道士の国外退去、布教禁止などを盛り込んだ、苛烈なものとなっていた。
これは、秀吉が伴天連追放令を出した理由に関係していると思われる。

伴天連追放令の発布理由は、確かなことはわかっていない。秀吉の美女狩りをキリシタンの女が拒絶したから、とイエズス会士達は考えていたらしいが、そこまで秀吉は短慮ではないだろう。
おそらく統一事業が完成に向かうに連れ、キリシタンの結束力を驚異と感じるようになったのではないか。一向一揆や国人一揆の団結力をを目の当たりにしていた秀吉が、九州に来てキリシタンの状況を把握して、キリシタンが一向宗や国人以上の脅威となりうると感じたのであろう。
そこでまず高山右近に棄教を命じたのである。キリシタンの大旦那と目されていた高山右近が棄教すれば、その団結力も大幅に減じるであろう、という考えである。右近が棄教すればキリシタン大名の多くが棄教する、下層民がキリシタンとなっても、そう恐れるものではない、これ以上キリシタン教界が拡大しなければよいのだ、との考えで、六月十八日付朱印状は出されたのであろう。

しかし秀吉の思惑とは裏腹に、高山右近は棄教をかたくなに拒んだ。
激怒した秀吉は高山右近を改易。右近の態度にキリシタンへの恐れを更に強くした秀吉は、伴天連追放令を発布。キリスト教を排除しようとする。
イエズス会の教会、病院、学校など次々と破壊されていく事となり、長崎のイエズス会領も没収されることとなった。

これに対し、コエリョはとりあえず六ヶ月間船が出ないので、20日以内の国外退去は無理、と使者に伝える。秀吉はこれを認め、平戸に船が出るまで宣教師が滞在する事を許した。
ここで日本準管区長コエリョは会議を開き、死を賭して日本に残留することを決定。日本教会は存続することになった。有馬・大村・天草のキリシタン領主の元に潜伏し、表だった積極的な布教活動は控えることになった。
(一方でコエリョは、有馬晴信、小西行長に迫害者秀吉に敵対するよう働きかけたり、マニラ総督の元に武装船の援助を求むなど、武力行使も考えていたようである。)

こうして伴天連追放令は出されたのであるが、秀吉はポルトガル商船の来日まで禁止したわけでは無く、むしろこちらは歓迎していた。南蛮貿易によってもたらされる利益や物品は秀吉にとって大きな魅力であったからである。
ポルトガル商船とキリスト教は深い結びつきがあったので、結局の所秀吉は、キリスト教を黙認せざるを得なかったのであった。
しかしながら、おおっぴらな布教は出来なくなったので、以前ほどの布教拡大は難しくなっていったのである。

ここにいたり、巡察使ヴァリニャーノの再来日、天正遣欧少年使節の帰還、印刷機の導入によって日本のキリシタン教界は少しづつ姿を変えていく。
そして新たな修道会フランシスコ会の来日によって、事件は起こるのである。

1590年、天正遣欧使節が帰還する。出発したとき少年であった彼らも若者となっていた。
彼らは、ヨーロッパのどこででも歓迎を受け、ヨーロッパキリスト教世界のすごさを目の当たりにする(彼らを案内した者に「キリスト教の素晴らしい所だけを見せよ」という命令が下っていた)。また彼らがローマに与えた影響も大きく、日本ブームが各地で起こり、日本への布教熱は一気に燃え上がり、日本布教を行ったイエズス会の名を高めた。これこそが遣欧使節を画策したヴァリニャーノ神父の意図であった。

さて、禁教令下にイエズス会士であるヴァリニャーノは、イエズス会巡察使としては日本に来ることが出来なかったので、インド副王の使節として来日することとなる。
秀吉に謁見したが、禁教令撤廃という目的は果たすことは出来なかった。しかしポルトガル貿易継続のために宣教師10人の長崎滞在を許可される。これをきっかけとして禁教令は骨抜きにされていくのであった。

秀吉に謁見した際、四人の遣欧使節達はクラヴォ、ハープ、リュート、レベックの合奏をおこない、秀吉はそれに聞き入り3度のアンコールを要求したという。

秀吉は使節の一人、伊東マンショを召し抱えようとするが、マンショはこれを断る。
その後、四人の天正遣欧使節はイエズス会に入会、日本教界のために働くこととなる。千々石ミゲル以外の三人は司祭となり布教に従事する。そして四人は伊東マンショは病死、千々石ミゲルは棄教、原マルチノは追放、中浦ジュリアンは殉教、と日本キリシタンの歩む道を彼らも歩んでいったのであった。

1587年、伴天連追放令は出されたが、南蛮貿易奨励のためには、ポルトガル商船と切っても切れない関係にあるイエズス会士をないがしろにするわけには行かなかった。
いくつもの教会や施設が破壊されたが、ポルトガル人のためにと言う名目ですぐに再建される所もあった。
またこの頃、以前にも書いたとおりポルトガル風の衣装やアクセサリーが流行、キリシタンでも無いのにオラショを唱える姿が見られた。追放令を出した秀吉自身が、聚楽第でロザリオを身につけていたことが明らかとなっている。
相変わらず大っぴらな巡回布教は出来ずにいたが、九州地方では受洗者も増え続け、日本キリシタン教界は復活の兆しを見せていた。

そんな中1593年、フランシスコ会士がフィリピン総督使節として来日する。これは、秀吉がフィリピン征服のため、同地に朝貢を命じていたものの返答としてである。
この新たな修道会の来日から悲劇が起こる。

日本布教はイエズス会の独占状態にあり、教皇からもその旨の勅書が出ていた。それを不服とするスペイン系修道会は、その勅書の取り消しを誓願し、また日本布教に熱い眼差しを向けていた。また日本からもフランシスコ会士を招聘する動きがあったこともある。
ともあれフランシスコ会士達は、総督使節と言う名目ではあるが来日した。そして京都で公然と布教を始めたのである。教会や病院を建て、布教に従事した。さらにフランシスコ会士がフィリピン総督使節として来日し、教勢を拡大しようとした。イエズス会は、あからさまな布教活動は控えるように、との助言を出したが無視された。

その頃1596年、土佐浦戸にスペイン船サン・フェリペ号が、台風のため漂着した。
日本では、漂着した船の積み荷はその土地の領主の物、という慣習法があった為(鎌倉幕府制定の廻船式目)、積み荷は長曽我部氏により没収され、秀吉にその旨を報告した。この船の船長マティアス・デ・ランデーチョはこの暴挙に怒り、在京のフランシスコ会士を通じて秀吉に嘆願したが、すでに五奉行の増田長盛が積み荷引き取りの任を帯びていた。

浦戸滞在中、増田長盛はスペイン人航海士ランディアを尋問。航海図を見せて「スペイン人はいかにして、フィリピンやヌエバ・エスパーニャを奪ったのか」と聞くとランディアは、彼を威嚇する目的で、スペインの世界的覇業を語る。長盛がその覇業のためには、まず宣教師が来なくてはならんだろう、と問うと、ランディアは、そうだ、と答えたと言う。
長盛は秀吉に「スペイン人は征服者であり、彼らはまず他国に修道者を入れ、その後に軍隊を入れ征服する、それを日本でもやろうとしているのだ」と報告したという。
(これがサン・フェリペ号事件である)

この報告は秀吉を激怒させた。
伴天連追放令発布の際、秀吉はキリシタンの結束も恐れていたが、宣教師の背後にいるスペイン、ポルトガルも恐れていた。その危惧が現実の報告となって耳に入ったのである。さらに自らも朝鮮征服を企てる征服者であったから、なおさらいらだち激怒したのであろう。
これが日本二十六聖人の殉教に繋がっていくのである。

怒った秀吉は、日本征服の先兵たる(と秀吉が思っている)宣教師とキリシタンの撲滅に動き出す。
折しも、総督使節として来日し、布教しないことを条件に京都に住まわしていたフランシスコ会士達が、公然と布教に従事していた。秀吉はこれを強く非難し、大坂・京都にいた宣教師達の逮捕を命じた。
逮捕に際して、石田三成や小西行長の配慮があったのであろう。逮捕者を最小限にとどめ、イエズス会の中心人物は逮捕をまぬがれた。
結局、1596年12月9日、6人の外国人フランシスコ会士、18人の日本人修道士、同宿が逮捕された。(※同宿:宣教師らに同行し世話をする人達。伝道士。)
逮捕された日本人も主にフランシスコ会の人間であった。

逮捕された一行は、左の耳たぶを切り落とされ、鼻をそぎ落とされ、京都・大坂・伏見・堺の市中を引き回された。その後主に歩いて長崎への道を取る。護送中、更に二人の逮捕者を加え、一行は二十六人となった。極寒の季節、約一ヶ月の死の行進の末、1597年2月5日、長崎西坂にたどり着いた。着物を脱がされ、直ちに刑が執行された。磔刑であった。
二十六人の中には12歳のルドビゴ茨木をはじめ、4人の十代の少年も含まれていた。
遺体は一ヶ月以上、磔のままさらされたという。

この処刑の翌月、再び伴天連追放令が発布され、宣教師達は次々と国外追放された。赴任したばかりの初代日本司教マルティンスも長崎居住を諦め、マカオへ去った。
教会の破壊も相次ぎ、再び日本キリシタン教界に危機が訪れる。
このような時機、登場するのは毎度おなじみ、日本巡察使ヴァリニャーノであった。

しかし、ヴァリニャーノの活躍を待たずして、1598年9月18日、太閤秀吉が死去し、キリシタン教界にまたも転機が訪れたのである。
ヴァリニャーノの仕事は、布教活動が公に再開されるだろうことを見越した、布教体制の再建にあった。

1599年2月から10月までのわずか九ヶ月間にキリスト教への改宗者が、四万人にもおよんだ。石田三成がヴァリニャーノにイエズス会士を保護することを約束したことや、徳川家康がフランシスコ会士ヘスースを江戸に呼び、江戸滞在と一般市民への布教を約束したことが影響していると思われる。
石田三成はキリシタン大名小西行長を味方に引き入れるため、キリシタン教界の保護を約束する。しかし三成と行長は、関ヶ原合戦にて家康に破れる。小西行長はキリシタンであったので、切腹でなく斬首を死に方として選んだという。ともあれキリシタン教界は、保護の約束と大旦那とを失ったのであった。
かくして、天下の趨勢は徳川家に固まり、これからのキリシタン教界は家康の手のひらの上にあった。

家康は「太閤の祖法を守る」という名目の元に、伴天連追放令を表面上は継承していたが、秀吉と同じく通商貿易に強い関心を持っていた為、イエズス会に便宜を図り、長崎・大坂・京都への居住許可、キリシタン大名の信仰を保証するなどの事を行った。
諸大名もこのような一見寛大な家康の姿勢から、キリシタン教界に好意的で、領内に宣教師を招き、布教を許可する事も多かった。
また、この頃になるとイエズス会、フランシスコ会の他にドミニコ会、アウグスチノ会の宣教師も来日し教勢を拡大していった。
こうしてキリシタン教界にとって、一見平穏な時期が十年ほど続く事となる。
しかしそれも徳川家康が江戸幕府の集権体制を確立するまでの、ほんの短い春に過ぎなかったのである。


布教開始〜許教時代 江戸初期の大迫害