デジタル教科書についての私見(その2)<<戻る

教育に「デジタル」を持ち込むことについての現実

まだ、パソコンを用いた教育システムが浸透したことはない。
その現実を、現場の先生の保守性に求める意見も、個人的に聞いたことがあるが、
私は、「パソコンの持っている機能」と「教育という営み」に、
水と油のような関係もあるからだと考えている。

正直、私も自分の勉強の場にパソコンを導入しようと考えたことがたくさんあるが、
初めは便利だと思っても、実際にはなかなかうまくいかないことが多い。

ここでは、少し「デジタル教科書」から離れて、
「キーボードを打つこと」と「学習」について書いてみようと思う。

キーボードで打ってノートをとって、学習できるのか?

文字が一般的になる前は、知識の伝達・学習は、音声で行われていた。また、映像で行われていた。
それに慣れた人は、文字を通じて知識の伝達・学習することが難しい。

実際に現代でも、テレビなどに慣れすぎて、文字を通じて学習することが苦手な人たちがいる。
あれは、その人が怠けて文字を読み飛ばしているのではなく、「文字を通じて学習する訓練ができていない」だけであろう。

そこで、私が大変興味を持っている命題は

それは例えば

である。今のところ、私は、キーボード打ちをした方が記憶に残りにくい、という結論を持っている。
私が、小さい頃からキーボード打ちでノートをとり、定期テストの勉強をしていたら、もう少し、記憶にも残りやすいだろう。しかし、本質的に紙と鉛筆の方が、記憶に残りやすいと思っている。

キーボードを打つ学習の長所と短所

キーボードを打つ、という操作による学習はいくつかの利点がある。たとえば

など。
しかし、これら長所のうち

ことを意味する。紙と鉛筆ならば、書くだけで覚えられたことも、キーボードを打つだけでは覚えられないことが多々ある。しかし、私が感じる最も大きな欠点は

であることにある。なぜ、キーボードの下から3段目、左から2番目のキーを押すと「あ」(ないし「A」)と表示されるか。なぜ、こんな曲線(ないし線分)が表示されるのか。自分の体のどこも、そんな曲線や線分を描く運動をしていない。
正直なところ、私はこの齟齬が今でも少し苦痛である。

脳は、デジタルにはできていない。デジタルな物を入れるには、脳のどこかで変換をしないといけない。それが、紙と鉛筆の場合は必要ない。
これが、「キーボードを打って学習する」ことの欠点であり、今でもコンピューターをいっさい触れない人が一定数存在し、多くの人が「コンピューターは苦手」と言う原因ではないかと、私は感じている。


続き>>デジタル教科書についての私見(その4)


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